ディズニーミラベルと魔法だらけの家考察
ミラベルと魔法だらけの家
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『ズートピア』『モアナと伝説の海』のディズニーが贈るミュージカル・ファンタジー。 魔法の力に包まれた、不思議な家に暮らすマドリガル家。家族全員が家から“魔法のギフト(才能)”を与えられるなか、ミラベルだけ何の魔法も使えなかった…。ある日、彼女は家に大きな“亀裂”があることに気づく──それは世界から魔法の力が失われていく前兆。家族を救うため、魔法のギフトを持たないミラベルが、“唯一の希望”として立ち上がる。なぜ彼女だけ魔法が使えないのか?そして魔法だらけの家に隠された驚くべき秘密とは!?第94回アカデミー賞(R)長編アニメーション作品賞受賞!
https://www.disney.co.jp/movie/mirabel
不思議な魔法の力のある家族
おばあちゃんが若い頃子どもを3人産み、夫と幸せに暮らしていた。しかし、迫害を受けその村から去ることを強いられてしまう。
村のみんなで逃げるが追い付かれてしまい、夫が身を挺して家族を守り殺されてしまう。その際に蝋燭に不思議な力が起き、家族を守るためにおばあちゃんに力が与えられる。いわゆる愛のパワーと考えられる。
川の周りに山がそびえたち、決して襲われることのない安全な家を手に入れることが出来た。
その力は子どもたちに継承され、家や村を守るために力を使うように育てられていた。
特別でなかったミラベル
家族全員が特別な力を持ち、家族や村の人を守っているのに対し唯一特別な力を持たないのがミラベルだ。
家族の中で1人だけ力を持っていないことに対し、疎外感や特別でないことに対する罪悪感を持ち生きていた。
そんな中従弟のアントニオが5歳の誕生日を迎えるため、魔法の力を授ける儀式の準備にいそしんでいた。
家族のみんなが魔法を使って準備をする中、力を持たないミラベルも役に立とうと自分で出来る手伝いをする。その様子を見た母は無理をしないでいいと伝えたり、祖母に対しミラベルが儀式の日を迎えることは辛いことであると理解を示すように話していた。
ミラベルは特別な力を持たずとも、ありのままの姿を両親から愛されている。そのままで愛され、彼女の孤独や疎外感さえも親は理解しているのだ。しかし、いくら親がありのままを認めても、自分自身で私は私でいいのだと思うことが出来なければ、何度そのままでいいのだよと言ってもその人を救うことは出来ない。自分を救うことが出来るのは自分だけなのだ。
祖母はミラベルが特別でなかったことで、家族ががっかりしたと言い特別な力を持たないありのままのミラベルを認めることが出来ない。それは祖母に起きた悲劇があまりにも恐ろしかったからである。
魔法の力を授ける儀式を控えているアントニオも特別でなければいけない、ミラベルのように特別じゃなかったらどうしようと不安になっている。
特別でなければ愛されないのか
ミラベルも特別になりたい、特別でなければいけないと思い込んでいる。しかし、力を持つ家族も力を失えば私は愛されない、力のない私は家族を守ることができず愛されないと悩んでいる。
そう思ってしまうのは祖母から家族のため村のために特別であれ、常に上を目指し特別であれと強要されているからだ。特別であるにもかかわらず、もっと特別であれと一切認めてもらえない。
人は誰しも認められたい、愛されたい、役に立ちたいという欲求がある。誰かの役に立っていると実感することで、自分はここにいていいのだ。ここで生きていていいのだと思うことができる。
一生懸命毎日を生きている人に対し、もっと頑張れ、もっともっとと言うとどうなるだろうか。言われた人はこのまま生きていてはいけないのだと、たちまち潰れてしまうことが考えるに容易い。
ミラベルのおばあちゃんはPTSD
祖母の愛は歪んだ愛だ。祖母は自分に特別な力がなかったため、愛する夫を守ることが出来なかったと心の傷を抱えている、いわゆるPTSDだ。
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)は、死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態です。
こころの情報サイト
特別な力がなければ家族を守ることが出来ず、みんなが死んでしまうという不安にさいなまれているのである。
だから特別であれと強要する。しかし、その願いは祖母の不安から発せられる言葉であってそれは愛ではない。
死の恐怖に取りつかれてしまうと、そのように子どもたちに死んではいけないと不安な気持ちを強要することにもつながる。
しかし、人間は誰であってもいつか死を迎える。絶対に死なないと約束することはできない。そんな祖母の不安をぶつけられてしまった子どもたちは、健全に育つことができるだろうか。
不安は伝染する。祖母がいつも不安に思っているから、周りの家族も不安になってしまうのだ。特別な力をもっていているのに、救えなかったらどうしようと不安になってしまうのだ。
不登校の親子でも同じようなことが起こる。親がこの子がいじめられたらどうしようと不安になっていると、子どもに不安が伝染し学校に行くことが怖くなってしまう。このように不安という感情は伝染しやすい。
ミラベルは特別でなかったからこそ、持っている強さがあった。特別な力を持たずとも家族を守れることを証明できるのだ。
特別で完璧と思うほど失うものが多い
自分が特別で完璧だと思う程、少しでも完璧でなくなれば失うものが多い。もともと完璧でないと思っている人は、そもそも失うものがない。
ミラベルも完璧でない自分には失うものがないと思っているからこその強さがある。時に完璧でないからこそ強くなれることもあるのだ。
また完璧であることに際限はない。完璧という状況はいくら追い求めても終わりは来ない。誰しも完璧になることは不可能なのだ。
イサベラは美しくなければ意味がないと思っている
ミラベルの姉イサベラは祖母の望み通り、家族のために結婚しようとしている。それは家族のための愛と思っているが、誰かのために自分の気持ちを犠牲にすることは愛ではない。
本心を隠し美しくいい子を演じているから、特別でなくてもありのままで親に愛されているミラベルが嫌いなのだ。
親はいい子を演じている私の本心に気が付かず、特別でなかった妹ばかり目を向けているように見えるからだ。特別でないのになぜ愛されるのだ、私は特別であっても愛されず、いい子でいても愛されないのになぜお前は愛されるのだと敵意がある。
その心の底にある本心は、美しくなければ愛されない。いい子でいなければいけない、嫌な気持ちをだしてはいけないと思い込んでいる。
ある意味、ミラベルにだけ美しくない私を見せることができているともいえる。本心のこんなダメな私を愛して欲しいという感情や怒りを妹にぶつけているのだ。
こんなこと言っちゃう嫌な私を、あなたもどうせ嫌うんでしょとミラベルの愛情を試している。そして、ミラベルはいくら嫌なことを言われてもなんだこいつと思いながらも、傷つかない強さがあった。
このように回りくどい愛情を試す行為をする人に言われたことで悲しんでしまうと、やっぱり私は愛されないではないかと余計に相手を殻に閉じ込めることになるからだ。決して傷つかない強さと愛が必要になる。
ミラベルには愛のリーダーシップをとる力があった。だから、みんなの依存をぶつけられるのだ。
ミラベルは依存から自立へ成長した
家族を救うためにイサベラとハグをしようと向かい合うミラベル。ミラベルから愛を示し歩み寄っているにもかかわらず、お前のせいで全てが台無しだと怒りをぶつけられてしまう。
更に出ていけと感情むき出しにかかってくる。それでもミラベルは言い返すこともなく、怒りに怒りを返すわけでもなかった。
愛を与えるリーダーシップをとる人は、必ず批判されてしまう。リーダーはみんなの依存を引き受ける立場だからだ。ミラベルは愛を与え、みんなの依存を引き受ける力があった。それは特別でなくてもそのままの自分で愛されることを知っているからだ。
また本来子どもは成長過程で依存から自立へと向かう。何もできない赤ちゃんの時は愛を与えてもらうしかない、その依存時代を経て愛を与える自立側へ成長する。ミラベルは愛を与える側として大人へ成長したのだ。この映画はミラベルの成長物語でもある。
他の姉弟は5歳児の大人
5歳で魔法の力を与えられ、そこから家族のため村のために力を使い続ける。つまり5歳で人に愛を与える自立の立場へ無理やりなっている。
まだまだ依存していたい年頃に自立をせざるを得なかった人は、その依存時代を引きずる。いい子であろうとし他人に弱みを見せることが出来なかったり、自立しすぎてしまうことにも繋がる。
おばあちゃんの子ども3人の中で、2人の娘(ミラベルの母とアントニオの母)は子どもを産んだことで与えてもらえなかった依存時代を乗り越えている。ありのままの私を愛されたいという「母なるものへの依存」を子どもから得ることが出来たからだ。
子どもは親がどんな親であっても愛することを辞めない。親がいくら起こって怒鳴りつけても、子どもは愛を返してくれる。醜い自分でも特別でなくても愛されることで子どもからゆるぎない愛を与えられ知るからだ。
ブルーノや他の姉弟は子どもがおらず、母なるものへの依存をミラベルにぶつけている。どんなにだめな自分でもミラベルは認めてくれると分かっているからだ。祖母はそれが出来ないので、みんなの安全基地になることができない。
また、ミラベルのように母にならずとも愛を与える側の自立へ成長することで、心理的に依存を引きずっている誰かの母や安全基地になることも可能なのだ。
それは誰もが子どもの頃に親に無償の愛を与えてきているからだ。親に与えてきた愛を忘れているだけで、誰でも愛を与える力を持っている。その事実に気づくことで自分や世界中の人を愛で救うことにも繋がる。愛がなければ人は生きることができないからだ。自分自身や誰かを愛することを辞めて初めて人は傷つく。愛されないで傷つくのではなく、愛することを辞めて傷つくのだ。
ミラベルがみんなに愛を与えることができたのは、今までたっぷり依存側で愛されてきたからだ。特別な力を持たずともありのままのダメである自分でも家族から愛され、守られてきた存在だからである。
特別でなくてもダメな自分でも愛されるということを知っている人は強い。それはダメな自分を認めることができるからだ。ダメな自分を認めることができると、他人のダメな部分も認めることができるのである。
ルイーサのプレッシャーとは
ルイーサはパワーのギフトを与えられ、誰よりも強くないといけないと思っていた。5歳でそのように精神的に自立をし常に家族を救うために強くなければいけないとプレッシャーを感じ続けたら、人はまともでいることができるだろうか。
また5歳から他人に愛を与える自立側にまわって、依存がなかった人はいつしか必ず潰れてしまう。もうこれ以上愛が残っていない、もう愛せないとなってしまうのだ。それは誰にでも依存心は必ずあるからだ。
強くあれと完璧を求め続けると、自身の少しの弱さも認めることができなくなる。誰でも誰かに頼りたい気持ちや弱音を吐くことは必ずあるからだ。その心を無視し続け頑張りすぎると、たちまちやる気がなくなり燃え尽き症候群に陥る。更に誰も守ることができない自分を責め続けると鬱にさえなってしまう。
自分は強い、弱くなんかないと思い信じていることは防衛本能でもある。本当に強いと思っている人は、私は強いといちいち意識をしないからだ。私は弱い、そして傷ついていることと向き合うことが怖いので私は強いと思い心を守っている。
本当の強さとは、力があることではない。自分の弱さを認め、相手の弱さも認めることができる人が本当に強い人といえる。自分の弱さも認めることが出来ない人は、決して人の弱さも認めることができないからだ。
一生懸命頑張って生きてきた人は、それを相手にも求める。できない人に対してどうして出来ないのだと責める。自分に頑張らなくても良いと認めることができて初めて、他人にそれを認めることができるのだ。
ルイーサはミラベルにだけ、自分の弱さを吐き出すことができた。自分で自分の弱さを認め、それでいいのだよということはとても難しい。しかし、このように誰かに弱さを吐き出し、大丈夫だよと言ってもらうことで簡単に乗り越えることができる。
イサベラは本心を伝えることが出来た
イサベラはハグをしにきたミラベルに対し怒りに任せ感情を吐露する。それはまるで子供が母親に対してこうなったのはお母さんのせいだと責めている様子にも見える。その中で本当は結婚などしたくないということを話すのであった。このように、怒りの下には必ず隠された感情がある。怒りは二次的感情だからだ。
怒りに任せて自分の気持ちを伝えるのではなく、イサベラのように本当はこう思っているということを、伝えるコミュニケーション能力が円滑な対人関係を築くために必要になる。この能力はアサーションと呼ばれる技法で、訓練することにより手に入れることが可能だ。
ルイーサはイサベラよりも少し大人で、子どものようにミラベルに気持ちを分かって欲しいと伝えるのではなく弱音を吐くことができた。他責の怒りの感情から、自責の自分と向き合うところまで向かっているからだ。
自分のせいでこうなったという感情と向き合えない時に、怒りという他責の感情がでてくる。それだけ自責の念と向き合うことはしんどいことだからだ。自分のせいでこうなったと向き合い続けると人は死を選ぶ。
イサベラは本心を話しているときに、サボテンを咲かせる。今までは美しい花ばかり咲かせていたが、初めてトゲトゲした感情を出すことが出来たのだ。
ミラベルも責め続けられるが、決してその場から逃げたり責め返したりすることはない。この強さがミラベルにあったからみんなは弱音を吐くことができるのだ。
サボテンを見てイサベラは、なにこれ汚い!とはならず、なにこれこんなに美しいものがあるのと、自分の中にある汚い部分も認めることができたのだ。
そういう点では、どんな自分も美しいという自己肯定感は誰よりも高いことが伺える。美しくなければ意味がないと思っていたが、美しくない私を初めて出して、そんな私もそれはそれで美しいとすんなり受け入れることができるのだ。天性の自己肯定感の高さを持ち合わせていると言える。
このように、人によって自分を認める力は違う。すんなりダメな自分を愛せる人もいれば、なかなか愛せない人もいる。
そういった意味で救えない命もこの世にはある。いくらあなたは生まれただけで素晴らしいと愛を伝え続けても、最終的には自分で自分を認めることが出来なければ受け入れることが出来ないからだ。その差が生まれ持った能力か、生きてきた環境が不遇すぎたかである。愛を伝えることで人を救うことはできるが、今世では無理という程心の糸がこんがらがってしまっている人も中にはいることも事実だ。
ミラベルに与えられたギフトとは
ミラベルは特別なギフトを与えられなかったが、みんなを救うことが出来る”人を愛する”という特別な力があった。それは特別に与えられるものではない。愛する力は何か特別なものから与えられたからといって発揮できるものではないからだ。
愛する力があれば誰でも誰かにとって特別な存在になることができる。自分を愛し他人を愛す力がある人は誰かを救う強い力があるからだ。
みんなはおばあちゃんには本音を伝えることが出来ずにいたが、ミラベルはみんなの代わりにおばあちゃんに伝えることが出来た。しかし、そこでお前のせいで家族がめちゃくちゃだと責められ、みんなの弱さを認めることができない祖母に対して牙をむく。これは通常の反抗期である。反抗期がないと人生の壁にぶち当たりいずれつまずく。
他の姉弟の依存心は受け止め、それでもいいんだよと愛することを辞めなかったが、祖母がみんなを認めることができないことを受け止めることができなかったのだ。
お前のせいでもあるだろ!このくそばばあ!はやくくたばれくらい言ってもいいと思うが、ミラベルには愛する力があったのでそこまで言うことはなかった。しかし、いくら愛しても、思うように愛して欲しいと叫んでもこの祖母のように心に問題を抱えると正しく愛することが難しくなる。思うように愛して欲しいと望んでも無理な親や人はいるのだ。
みんなに愛を与える愛の存在であったミラベルが、祖母に対し責め立てお前はどうして人の弱さを認めることができないのだと、愛することを辞めたので家は力を失い崩れていった。
そのような祖母が不安で安定していない機能不全家族には、ミラベルのような犠牲者がいることがある。その家族の光でありみんなの依存を受け止めている犠牲者が必ずいる。
その犠牲者がいることで辛うじて保っていた家族や家であるが、その人が潰れてしまい愛することをやめるとたちまち崩壊する。しかし、その崩壊こそがあらたな愛の始まりである。誰かの犠牲で成り立っている家庭は、機能不全を起こしているからだ。いつか必ず壊れるときがくる。
祖母を愛することを辞め、自分のせいで家を壊してしまったと思ったミラベルは1人その場から去る。本来ならば、責める代わりにどうして祖母はそう考えてしまうのだろうという愛を与えることができたら家は壊れることはなかったはずだ。しかし、ミラベルもまだ子どもであるので、大きな愛であることはむずかい。許しとは、自分に対し大きな愛になることを許すことだ。
また祖母に対し依存心があるから、しっかりしてくれという自立側であることを望む。親に対し強い存在であってほしい自立側で居て欲しいという依存心があるのと同じだ。だから祖母の依存心を受け入れることができなかったのだ。
祖母はミラベルを追いかけ、過去に何があったかを話す。心に閉ざしていた傷をミラベルに話すのだ。祖母の受けた恐ろしい過去を聞き、ミラベルはどれだけ祖母の心に隠していた不安があったのだろうと気づくことができたのだ。
そんな恐怖を抱えていたら、特別でなければ家族を守ることはできないと思ってしまうのも無理はないと思うことが出来たのである。
また特別なギフトをもたないミラベルが家族を守ることに意味がある。特別なギフトを持たずとも家族を守ることが出来ると祖母に教える必要があるからだ。
誰かを守り救うことが出来る特別な力は愛だ。愛があれば誰でも強く生きていくことができる。愛がなければ人は生きることが出来ないのである。
自分を愛し、他人を愛する。自分に大きな愛になることを許すことが幸せの近道だ。
誰でもミラベルのように誰かの安全基地になることが出来る。それは特別なギフトではなくても、誰でも持っている特別なものなのだ。
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