すずめの戸締り解説:すずめの戸締りが伝えたいこと【トラウマの治療法】

スポンサーリンク

すずめの戸締り解説

新海誠監督作品すずめの戸締まり公式ビジュアルガイド【1000円以上送料無料】
価格:1,870円(税込、送料無料) (2023/12/12時点) 楽天で購入
すずめの戸締りが伝えたいこと

すずめの戸締りが伝えたいことは、トラウマの乗り越え方だ。すずめが震災で母を亡くし、地震で多くの人が亡くなったことに対する心的外傷後ストレス障害いわゆるPTSDが発症したと言える。

トラウマいわゆる罪悪感は、生まれてきた人間ならば誰にでもある感情だ。私が生まれてきたことが罪である、私が生まれてきたことによって世界で戦争が起き、災害が起き私の周りの人々が不幸になってしまうという感情こそが本来の意味でのトラウマである。

すずめの戸締りではこのトラウマを乗り越えるための方法を教えてくれているのだ。

すずめに父親がいない理由

すずめは元々父親がおらず、母と二人で生活している。最近の映画でよくある父性の欠如だ。

圧倒的な保護者で力のある父親の存在が現代では薄れてきていることも考えられる。男女平等をうたわれる中、誰もが誰かに依存していたい、父に守られていたいという願望が男女関係なくあるのだ。

すずめの戸締りも父を描くことで、父に守られ保護され生きることができる。自分で自分を認めて救うというトラウマを乗り越え方を伝えることができなくなるので父を出演させなかったと言える。

現実世界でも親に頼らず自分の仲間を見つけ、自分の世界を築き生きていくことが本当の自立だ。

映画『天気の子』も親は一切出てこず、親以外の大人が出てきて2人を導いていく。現代版じゃりんこチエなのだ。どうしようもない親の元に生まれても、沢山の大人に出会うことで闇落ちせずに真っ当に生きていくことができる。

その点でも人生で誰と出会うかが重要になってくる。本来の意味で大人になっている良い大人と出会うことで救われることもあるが、大人になっていない子どものままの大人に出会うと犯罪に巻き込まれたりたちまち底へ引きずり降ろされ落ちていくのだ。

真っ当な大人が周りにいないなら、探しに行けばいいという話でもある。

いじめの問題でも一人の教師に助けて欲しいと言っても助けてくれないかもしれない。教師も人間だからだ。そんなときに、真っ当な大人に助けて欲しいと伝える力が子どもには必要になってくる。

一人に言ってだめなら、違う人に助けて欲しいと言えばいいだけだ。

現在行き場のない子どもたちのたまり場として、トー横やグリ下という場所が有名になりつつある。しかし、あの場に集まる子どもたちを狙う悪い大人(大人になれていない大人)も同じように集まってくる。

自分たちで集まり結託して人生を乗り越えていこうという強い子どもが混ざっていたら、良い方へ導いていけるかもしれないが、だいたい同じような寂しさや愛情を欲している子どもたちが集まってくる。

彼らには真っ当な大人へ助けてほしいと言える力が必要になってくる。保健所や市役所の福祉課や精神科病院など公的な場所で本当の支援者を見つける必要があるのだ。公的な機関でさえ、その人の人間力や支援者としての力量不足で支援に繋がらない場合もある。だからこそ、沢山の人にSOSを出す必要がある。

自分の親がダメな大人だったからといって、全世界の大人がダメとは限らない。愛情を持ち、子どもを搾取することなく、自由に生きていくことを望んでくれる、本当の愛を知る支援者や大人は多くいるのだ。

千と千尋の神隠しのように、風俗で働くことになったとしても、そこで真っ当な大人に出会い生きる力や自分で人生のかじ取りをしていく力を獲得してくことが出来る。

それが本当の支援だ。子どもの自立を促し、時に手を貸しそれでもその子のやり切る力を信じ言葉の魔法で勇気づける。それこそが安全基地である。その安全基地があるからこそ、人は辛いことがあってもまた前を向いて歩いていくことが出来るのだ。

すずめのようにたまたま良い大人、良い友人と出会えた子どもは幸運でしかない。多くの場合支援を必要としている子どもは見過ごされ、大人になれない子どものままの大人になって生きづらい人生になってしまうのだろう。犯罪や薬に溺れ人として生きることを諦めてしまうことに繋がる。

子どもたちに必要な生きる力とは、真っ当な大人や真っ当な支援者を見つけ、安全な人か見分ける力が必要と言える。

また、母なるものへの依存は誰にでもある。すずめの戸締りは自分の世界を広げていき、母なるものへの依存を乗り越え自身が誰かに愛を与え自分には誰かを救う力があると知ることで、母なるものへの依存を乗り越えることができるのだ。それが精神的な自立なのである。

すずめの戸締りのミミズの意味:PTSD発症

地震が起きる理由は扉が開くことによりミミズが出てきて地震が起きてしまうという設定だ。地震はどうしようもないことではあるが、すずめが戸締りをして人々を救っていくことに意味がある。

扉が開き、ミミズが出てきて暴れだす意味は、PTSDの発症といえる。

すずめは地震の記憶を忘れているか、抑圧して生きてる。思い出すと辛くて生きていくことが出来ないからだ。これは解離と言われ、怖かった記憶を思い出さないように自分の1つの人格に背負わせ眠らせている。これが酷くなると解離性同一性障害といい、いわゆる多重人格になるのだ。

辛い現実に耐えることが出来ず、主人格が自殺してしまうことを防ぐための人間の防衛本能である。

すずめは多重人格まではいかず、辛い記憶を扉の向こう側へしまい込んでいた。しかし、扉が開き暴れだしている状態なのだ。すずめは地震が怖かった辛かったという感情を押し殺していたが、その感情が抑えきれなくなって暴れだしていると言える。

トラウマの扉が開いた、パンドラの箱が開いてしまった状態といえる。扉が開ききってしまうと、その辛かった苦しかったという感情や地震が起きた記憶に囚われてしまい現実を生きることが出来なくなる。それがPTSDの症状なのである。だからこそ、きちんと扉を戸締りし、鍵を閉めてお返ししなければならないのだ。

すずめは記憶の奥底に閉まっていた怖かった記憶と向き合うときがきたのだ。

それは、草太と出会ったことが大きい。トラウマと向き合い乗り越えるときに一緒に戸締りをしてくれる支えてくれる人がいたから、向き合うことができたのだ。震災で傷ついた子どもの頃の自分を癒すときがきたのである。

すずめは東日本大震災で母を亡くしている。そんな無力な自分をずっと責め、母を救えなかった自分や皆を守ることが出来なかった無力な自分が許せないのである。この感情もPTSDによくある感情だ。

このように大きな事件や災害で亡くなる人が出てくると、生き残った人はその罪悪感にさいなまれてしまう。その罪悪感から救われるためにも、自分には誰かを救うことの出来る力があるのだと知る必要がある。

誰かを亡くし残された遺族は、自分のせいで彼らが死んでしまったと罪悪感に苛まれる。しかし、亡くなったあの人は『お前のせいで私は死んだんだ』とあなたを責める人だっただろうか。大好きなあの人をあなたを責める人にして、傷ついているのは自分なのだ。

すずめにはひとりぼっちにした母に対する怒りもある。こんな人生になったのは、お前が死んだからだと責めるのだ。それは自分のせいで母が死んだという自責の念と向き合うことが出来ないときに起こる。

他者に対する怒りは、自分のせいという自責と向き合えない時にでてくる。

だからこそ、自分の心と向き合う必要がある。母を責める怒りから、自分のせいでこうなったという感情と向き合い、母の死を仕方のないこととして受け入れる作業がいるのだ。

人が死を受容していく段階をアメリカの精神科医キューブラロスが5段階あるとした。キューブラロスの死の受容への5段階だ。

すずめは悲嘆のプロセスをたどり、母の死と向き合い受容していく必要がある。そうしなければ、いつまでも死んだ人に囚われて自分の人生を生きることが出来なくなってしまうからだ。

母を救えなかった私は幸せになってはいけないと、自分の人生を不幸続きにしてしまったり、幸せになることを恐れてしまうのだ。それを防ぐためにも、死と向き合いきちんとさようならをして自分の人生を歩いていく必要がある。

キューブラロス死の受容5段階

このように死の受容や深い悲しみを受容していくには段階がある。順番にたどる人もいれば前後して受容を迎えていく。

すずめのように辛かった記憶を奥底にしまい込み解離が起きているときは、悲しみを否認している。私は傷ついていないと否認し、母の死(トラウマ)と向き合うことを避けているのだ。

人の死を乗り越えることやトラウマの乗り越え方とは、悲しんでいる自分を受け入れてその悲しみと共に生きていくことでもある。悲しんでいる自分を認めることで癒しに繋がっていく。否認をしているといつまでも悲しみの渦に囚われてしまうのだ。

すずめを置いて死んだ母に対する怒りや救えなかった自分に対する怒りがある。母を救えなかった自分は愛される価値があるのだろうかと考えてしまうのだ。PTSDの症状としても自分の無力感に苛まれる場合がある。事件に巻き込まれると救えなかった自分や弱い自分に対する怒りが出てくる。

誰かに対する許せないという怒りや自分に対する怒りに囚われて、現実を生きることが出来なくなってしまうことがPTSDの後遺症ともいえるだろう。過去や誰かに囚われることなく、これからの自分の人生を進むことが本当の意味での回復である。

鬼滅の刃でも煉獄さんが言ったように、己の弱さにどれだけ打ちのめされても時間は止まってくれない。共に悲しんで寄り添ってはくれないのだ。それでも前を向いて胸を張って生きていくしかないのである。

きちんと悲しんでいる自分と向き合い、自分の人生を取り戻し歩んでいかなければならない。

その怒りの渦から抜け出す方法は、自分に愛を与え怒りの対象に愛を向けることで乗り越えることが出来る。

PTSDの人に起きる安全の喪失

PTSDは戦争や事件など死の危険が身近に起きることで発症する。しかし、いじめやパワハラなど自己肯定感をそがれる体験をすることで発症することもある。

共通する点は、自身の世界に対する安全感が失われてしまうことにある。適切な親子関係であれば、親子で安全基地を獲得し、子どもは親から離れ友人や先生といった安全基地を獲得していく。そうすることで、世界に対する安全性を学ぶのである。

しかし、いずれかの機会で安全基地を獲得できなくなると、世界に対する安全感を得ることができなくなるのだ。例えば、虐待がある親子関係ではそもそも生まれた時から安全基地がない。その子どもは、世界に対する安全感を得ることが出来ず、人間不信になり生きていくうえで様々な弊害がでてくるのだ。

すずめも震災で母を失ったことにより、安全基地を失っている。そういう子どもは、世界に対する安全感を喪失してしまっているのだ。人間は何か辛いことがあったときに、安全基地へ戻り辛かったねと認めてもらうことでまた外へでて自分で生きていく力を得る。

そのときに共感力がない相手だと安全基地として機能を果たさない。安全基地にはネガティブケイパビリティというネガティブなことに対する共感力が必要になる。辛かったことを、辛かったねと認める力が安全基地には必要なのだ。その能力を持たない親は安全基地として機能していないので、子どもがきちんと外で独り立ちして生きていく力を持つことが出来なくなる。

しかし、すずめの戸締りで伝えたいことは、安全基地を探しに旅に出ろ!自分で自分の安全基地になれ!と伝えているのだ。実際に、トラウマの乗り越え方も自分で自分の安全基地になることが必要になる。

ただし、自分で自分を愛するということは難しいので、他人に愛してもらい安全基地になってもらうことが手っ取り早い方法ではある。

すずめは愛することを知った

ヒーロー役の草太に出会い、恋をする。草太はいわゆる男性にありがちなロックマンで自分の殻に閉じこもりがちで、1人で何でもしようとする超自立型の人間だ。

すずめがまだ高校生であるので守るべき存在で子どもとして扱っている。僕が守るべき存在、世話をする存在として扱っており、対等な大人として扱っていない。

ここでもすずめは成長して大人になる必要がある。子どもと恋愛は出来ないからだ。

今まですずめは叔母である環に保護され、愛を与えられる側で依存側であった。高校生になるまで立派に育て上げてくれたのに叔母に対して煩わしい気持ちも出てきている。これは通常の反抗期である。

叔母の保護の元から離れ世界を知り自立していくことで、恋人という存在ができるのだ。そのためにも、反抗期はとても大事な成長過程である。

愛を与えられる依存側であったすずめが、初めて草太を救いたいと愛を与えるという自立側になり、愛を与える大変さを知ることで、どれほど叔母や母に愛されていたのかを知ることが出来るのだ。

子どもはみんな依存側である。親がいなければ生きていくことが出来ないので依存するしかないからだ。しかし、子どももまた愛を与える側でもある。

親が怒ったり何をしても子どもは愛することを辞めない。それは生きていくために必要なことだからともいえるが、子どもは親のことが大好きだからだ。私たちは生まれながらにして、誰かに愛を与え続ける能力があるということを知ることもトラウマを乗り越えるために必要なスキルだ。

他責の下に自責がありその下に愛がある。PTSDの症状である他者や自身に対する怒りを乗り越えるためにも、あいつのせいでこうなった、自分のせいでこうなったを超え、愛を選択する必要がある。愛を選択することで自分や許せないあいつから解放されるからである。

すずめも叔母のことを煩わしく思い、上手く愛せないうっとうしいと思ってしまう自分を責める。本来の反抗期であるのだが、親のやり方に反発し親を愛せないということで混乱していく。そういう自分も自分でいいのだと受け止め受容していくことで大人になる過程が反抗期なのだ。

その時親にできることは、危険がない限り必要以上に介入せずそっと見守る必要がある。それが安全基地の果たす役割だからだ。子どもが自分で乗り越えることを見守り、やり切る力を信じてあげることが最大の愛情と言える。

旅の途中で無償の愛を知る

すずめは旅の途中で愛媛県で両親が民宿を営んでいるチカ、神戸でスナックを営んでいるシングルマザーのルナと出会う。

彼女たちに出会い、他人であるのに親切にされ無償の愛を知ることが出来た。親から無償の愛を与えられるのは子どもだから当たり前と思ってしまうので、与えられる依存側のときは無償の愛が何か分からなくなってしまう。

他人から無償の愛を与えられることで、これが無償の愛だと理解し与える側の自立側に回り成長することが出来るのだ。

他人から無償の愛を与えられ、叔母が与えてくれていた無償の愛に気づく。草太に無償の愛を与える側に回って初めて愛を与える大変さ無償の愛の大きさに気づき、叔母にどれほど愛されていたのかを知るのだ。

それでも叔母は母親ではないので、親のように愛されたいという欲求は埋まることはない。そのために、自分で自分を癒す作業が必要になる。今の自分が決して愛されていないわけではないが、母を失ったあの頃の自分が誰にも愛されず深く傷ついているのだ。

今の自分にいくら愛を与え幸せを感じても、その頃の傷ついている自分を癒すことができないと生きづらさに繋がってくる。

扉の向こうにいた幼い頃のすずめはインナーチャイルドで、傷ついている自分を自分で癒すことでトラウマを乗り越えていくのである。

扉が開き、インナーチャイルドが出てきて暴れだしている状態でもある。傷ついた許せない怖かったと、子どもの頃に感じた感情があふれ出して止まらなくなっているのだ。

その感情を戸締りするためにも、インナーチャイルドを癒し戸締りする必要がある。

大臣がすずめの子どもになりたいと言う理由

猫の大臣がすずめの子になりたいというのは、すずめの心の声でもある。あなたの子どもになりたいという母なるものへの依存があり、幼い頃に母が死んでおり母に守られ依存して生きていきたいという幼児的な欲求が満たされていないからだ。

子どものころにこのように安全基地の喪失があると愛着障害となり、人と上手く人間関係を築くことができなくなってしまう。草太も両親の存在が不在で、祖父に育てられた描写があるため、回避型の愛着スタイルなのだろう。

また、すずめは環に対して本当の母親になってほしい、あなたの子どもになりたいという願望が隠されている。しかし、環は叔母なので本当の母親になることはできない。そして、私がいることで環の人生を不幸にしている、私はいらない子と無意識に思っているのだ。

叔母にあんたがいたから結婚も出来なかったなど一言も言われたこともないが、私がいることで環の人生を犠牲にしていると勝手に考えているのだ。その考えが投影され、きっと環はこう思っているに違いない思い込んでいる。

環が結婚をしなかったのは、環の選択であり環の課題である。すずめがいようがいまいが関係ないことであり、このように相手の課題に介入しすぎると自他境界線を越え人間関係がしんどくなる原因になる。

相手の課題は相手のもので、例え親子であっても介入することはできないのだ。

私はいらない子でしょという本音を素直に話せば、そんなことないと環は言うはずなのに直接言うのが怖くて間接的に反抗期で伝えている。あんたなんかいらないと言われるのが怖くて直接聞くことが出来ないのだ。

そして本当の母親になって私を愛して欲しい、こんなダメな私でも愛して欲しいという反抗期を迎えている。私は草太さんの役に立ちたいのと出ていき、分かってくれない環に対し煩わしさを覚える。まさに反抗期真っ只中の親子だ。

すずめが自立を迎え環の保護の元から手放すときが来ているのである。その時に親は子どもを信頼し、自立を促す必要がある。

すずめは反抗期をむかえ大人になる必要がある

お互いに心の底で思っていることを言えないでいる。引きこもりの子どももその一例だ。思っている本当の気持ちを親に伝えることができないので、引きこもりを通して間接的に伝えるしかできないのだ。

私を分かってほしい愛して欲しいと攻撃性が外に向かうと非行に走り、それができない子どもは引きこもりという静かな攻撃性にでる。これは受動攻撃と呼ばれ、日本で多い攻撃性だ。どちらもこんな私を愛して欲しい、私の意見を聞いてほしい、私を見てというSOSでしかない。

その時の親には決して傷つかない力が必要になる。子どもがいくら攻撃性を向けてきても傷ついてはいけない。愛を与えても本当に愛しているのかと何度も試してくる。その時に愛を与え続けることができるかどうかでその子を救うことが出来るかにかかってくる。

反抗期の子ども対策本

親に攻撃性を向け、親が傷ついてしまうと自分はダメなんだと更に自分を責めて鬱になっていく。本音を吐き出せるように落ち着いて向き合う力が必要になるのだ。トラウマの治療でも必要なスキルになってくる。虐待や性被害にあった人がカミングアウトをするときに、支援者は決して傷ついてはいけないのだ。

虐待被害の話をすることで、誰かを傷つけてしまうと思うと、その傷ついた気持ちを再び自分の中に閉じ込めてしまい救うことができなくなってしまうからだ。これが二次加害ともいえ、旧ジャニーズの問題であったように被害者が更に追い詰められることに繋がる。カミングアウトを受けた際に必要なことは、決して傷つかず相手に共感を示すことだ。

だからこそ、被害者やトラウマがある人は適切な機関やカウンセラーを選ぶ必要がある。保健所や医療機関から紹介を受けることが一番安全だろう。

このように傷ついた子どもから攻撃性を向けられたとしても、愛を与え続ける。その愛はジブリのもののけ姫アシタカの愛だ。アシタカはもののけ姫に何度も攻撃性を向けられようともその下にある本心を理解し愛を与え続けた。その愛が人を救うことが出来る唯一の方法だ。

すずめは私はいらない子でしょ、あなたの子どもになりたいと言えず、環はいくら頑張っても本当の母親になれないことで苦しんでいる。

そしてすずめは環に対し母のように愛して欲しい、あなたの子どもになりたいという欲求がある。これこそ母なるものへの依存である。本当の母はもういないので、誰も母の代わりは出来ないにもかかわらず母のように愛されることを望む。

母なるものへの依存を乗り越えていないと、大人になることができず後の人生で生きづらさに繋がる。自分の母になってくれない周りに敵意が出たり、結婚したとしても夫や妻を親代わりにしようとする。それが出来ないと子どもを自分の親代わりにするのだ。

そうならないためにも成長し、母なるものへの依存を乗り越えて大人になる必要がある。

すずめは大人になりトラウマを癒した

すずめは愛を与えられる側の依存側である子どもから、愛を与える自立側の大人へ成長した。

人柱になろうと自分さえ我慢して生きればいいのだと人生を諦めている草太に対し、一緒に生きようと助けにいき愛を伝えるのだ。

本当の愛を知り人に愛を与えることを学び、過去の自分を癒す作業に向かうのである。

扉の向こうにいた過去の自分、傷ついている自分、インナーチャイルドを自分のインナーアダルト大人な自分で「もう大丈夫だよ」と癒すのである。

それがトラウマの治療方法だ。

だからすずめは自分自身であなたの未来は大丈夫と子どもの自分に伝えて過去の自分を救うのだ。

このように自分で自分を癒す作業は難しい。しかし、誰かこの世界に1人でもいいので自分の味方を見つけることでトラウマを簡単に乗り越えることができる。その人にこんな自分は愛されることはない、という心の内をさらけ出し互いに支えあい出来ないことを補い合うのが相互依存の大人な関係である。

この関係がハウルの動く城のハウルとソフィーの関係である。ハウルの動く城でも扉が出てきて過去の一人ぼっちのハウルに「未来で待ってて」とソフィーが伝えるシーンがある。あのシーンも傷ついた過去の自分を救うということだ。ハウルの動く城では、孤独なソフィーが孤独のハウルを救うという物語である。

この点でも新海誠は今作品でジブリをオマージュしているシーンが多々ある。パクリというより、ジブリが大好きすぎるということが伝わってくる。

しかし、あなたは生まれてきただけで素晴らしいと言い愛を伝え続けても、今世で救うことは無理というくらい傷が深い人もいる。結局は自分で自分を癒せるか許せるかは自分次第だからだ。

しかし、救えるかはわからないけれど共に生きることはできる。もののけ姫でアシタカがそういったように、その人を救えるかは分からないけれど共に苦しみ悲しみ生きることはできるのだ。

環に猫が乗り移った理由

東京まで迎えにいった環は、いい加減にしろと言いながらもすずめのやりたいように付き合う。とても子ども思いの優しい叔母さんだ。そもそも、すずめが大きくなるまで育て上げた点でも十分愛情深い優しい叔母だ。

しかし、いつまでもずんむくれた態度のすずめに対して怒りが爆発してしまう。普段は抑えている感情が溢れてしまったのだろう。

本音ではあるが、決してすずめを愛していないわけではない。お前をここまで育てるのにどんだけ苦労したと思ってるんだというどの親にもありそうな感情だ。しかし、それを子どもに伝えることはお門違いなのだ。

産む選択をしたのはお前だ、お前が始めた物語だろだからだ。すずめを引取り育てる決断をしたのは、環の選択であってすずめの選択ではないからだ。その選択をすずめのせいでこうなったと責めることは出来ないのである。

怒りに身を任せてはいけないことがこの作品でもわかる。怒りに囚われて自分を見失ってしまうと、このように相手を傷つけてしまうことに繋がるからだ。怒りは二次感情と呼ばれ、その下に必ず別の感情が存在する。

分かってほしい、愛して欲しい、傷ついたなどその感情を上手く表現できないときに、怒りという感情を使い表現してしまう。そのためにも、アサーティブコミュニケーションを学ぶ必要がある。

アサーションとは、お互いを尊重しながら行う自己表現の方法である。

草太は回避性愛着スタイル

草太も両親の存在が不明で、祖父に育てられた描写がある。このように、親との関りが希薄であると子どもは安全基地を獲得することが出来なくなる。

かまってほしいときにかまってくれる相手がいなかった子どもは、甘えることを諦める。一人で何でもするしかないと超自立型の人間になるのだ。

そのように親子で安定型の愛着を築くことが出来ないと、回避性愛着スタイルという人と深い関わりを持つことを恐れる。恐れるというよりも人と深い関わりを持つ方法を学んでいないと言える。

どうせ人は自分から離れていくと思い、初めから深く好きになりすぎないようにするのだ。親子関係で愛着がきちんと形成できていないとそのような愛着スタイルになったり、失恋や人に対する安全感を傷つけられる体験(いじめ等)によってなる場合もある。

草太も回避性愛着スタイルで、1人で戸締りをして自分が我慢し犠牲になり生きることを諦めているのだ。そんなときに、すずめと出会い1人で頑張らなくてもよい、2人でした方が戸締りしやすくなることを学ぶ。それが相互依存の関係で、助けてほしいと適切な大人に言えることが本当の自立だからだ。

草太は1人犠牲になることを選んだ

草太は1人で戸締りをし、そのためだけに犠牲になって生きている。教師になりたいという夢を諦め戸締りをしている。最終的に生きることすら諦め1人犠牲になることで世界を救おうとした。

しかし、それでは世界は救うことはできない。生きることを諦めてはいけないからだ。

生きることを諦めて一人孤独の世界で閉じこもることを選んだ。回避性愛着スタイルの人に良くある傾向ともいえる。

すずめはそんな草太を愛していたのだ。だから、一緒に生きよう共に戦おうと凍っていく草太を救うのだ。このように回避性愛着スタイルの男性には情熱的な女性が惹かれあう。また、その情熱で心の氷を溶かすことさえできるのだ。

すずめの戸締りが伝えたいことは大人になるということ

すずめの戸締りが伝えたいことは、大人になるということだろう。大人になり、誰かを愛し愛され1人じゃないということを学ぶ。

映画天気の子では、世界を壊してしまったけれど君に出会えたからこれで良かったのだ。こんなクソみたいな世界でもあなたがいるから生きていける。あなたを大丈夫にしたいんじゃなくて、あなたの大丈夫になりたい。を伝えている。

すずめの戸締りは、そういう相手に出会い自分で自分を救うということを伝えている。誰かにあなたは大丈夫と言われるよりも、自分で自分に大丈夫ということの方が難しいことだからだ。

しかし、結局他人にあなたは大丈夫と言われても自分でそれを認めることができなければ、永遠に大丈夫と思うことが出来ないのだ。最終的にその人を救うことができるかは、その人の課題になるからだ。

それでも、その人に寄り添いそばで見守り大丈夫と思えるように支えることが本当の愛ではないだろうか。

すずめの戸締りはそんな風に寄り添ってくれる大丈夫と伝えてくれる映画だ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました