もののけ姫メッセージ【祟り神の正体・他者との共生】

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もののけ姫【解説】祟り神の正体・他者との共生

アシタカの村

人間はかつて山の主を神様と称え共生していたが、時代が進化するにつれ神様の存在も忘れ山を切り開いていったのである。

もののけ姫の時代は室町時代であるが、アシタカのいる村は文明から離れて昔ながらの暮らしをしている民族なのだ。

神様の存在も忘れておらず、自然と共に生きることを続けているのである。

だからアシタカはデイダラボッチのことも知っており、コダマのことも知っているのだ。

祟り神の正体

アシタカの村に来た祟り神の正体は、サンのいる山からやってきた猪であった。

サンのいる山の神として生きていたが、烏帽子率いるたたら場が山の近くに築かれてしまう。

山は切り開かれ、自然を壊す烏帽子たちに猪は怒りを募らせていったのだ。

怒りを募らせ人間を恨み烏帽子を殺そうと躍起になって火縄銃で撃たれてしまう。

山を彷徨い、怒りを募らせ様々な怒りを集め次第に祟り神になってしまいアシタカの村までやって来たのだ。

祟り神は無敵の人

祟り神は今でいう、無敵の人ともいえる。

世の中を呪い、人を呪い、社会のせい、あいつのせいと他責で怒りに身を任せていると人は祟り神になってしまう。

アシタカの村に来た猪の祟り神が「人間どもよ。わが苦しみを知るがいい」と言い残し死んでいく。

いや、あなたの苦しみとか知らんがな!と全力でツッコミたいところだが、それでは怒りに飲まれた他責の祟り神は救えないのだ。

祟り神に言葉は通じない

怒りに身を任せ、祟り神になってしまうと言葉が通じなくなる。

アシタカが祟り神に話しかけるが一切通じないのはそれが理由である。

祟り神になると言葉も忘れ、いずれ死を迎えることになるのだ。

ひい様はアシタカの行く末を知っている

ひい様は村の長であり、アシタカの行く末を知っているからアシタカを旅だたせた。

いずれ祟り神の呪いが体を蝕み、怒りに身を任せアシタカ自体が祟り神になることが分かっているのだ。

ひい様は「誰にも定めは変えられぬ。ただ待つか、自ら赴くかは決められる。」そうアシタカに伝えるのであった。

起きてしまったことは誰にも変えることは出来ないが、そのまま時が過ぎるのを待つだけか、変えようと行動するかは自分で決められる。

ひい様の言葉は人生を変えるために必要なことかもしれない。

祟り神の呪いは恐ろしい

旅の道中でアシタカは侍に狙われるが、弓矢で応戦する。

命を奪うつもりはなかったが、祟り神の呪いで侍二人の命を奪ってしまう。

それほど怒りという感情は恐ろしく、いずれ人の命まで奪ってしまうのだ。

サンはアダルトチルドレン

親に捨てられたサンは、自身の出自に悩んでいるいわばアダルトチルドレンである。

人間でもなく、山犬でもなく、どちらにもなれない私は一体誰で何者なのかと悩んでいるのだ。

自分を捨てた親(人間)を恨んでいるから、敵である人間や烏帽子を必死になって殺そうとしている。

捨てた親(人間)に対する怒りの下には別の感情がある。

『私はいけない子で人間ではない、だから捨てられた』という自責の念が隠れている。

親に捨てられたことにより、私は生まれただけで価値があり素晴らしいという自己肯定感が奪われてしまっているのだ。

怒りの感情の他責の下に必ず自責の念がある。それを隠すための防衛本能として他責の怒りがあるのだ。

他責は戦いしか生まない

サンは人間が悪いという他責の怒りに飲まれている。

あいつが悪いという他責でいると、もののけ姫と烏帽子のように争いしか生まない。

他責の人を救うには怒りに怒りで返すのではなく、愛を伝えるしかない。

烏帽子は悪い人か

烏帽子は森の住人から見れば悪い人に映るだろう。

しかし、仲間の人間から見れば病気の人も受け入れとても愛情深く、愛ある人間だ。

愛はあるが、烏帽子の愛し方は自立型の愛なのだ。

自立型の愛とは愛情がないわけではないが、自分のやり方に沿えないなら去れというスタイルを貫く。

自立型の愛では他責の祟り神を救うことはできず、共生という選択がない。

自身のやり方に沿えないもののけ姫たちは邪魔な存在なので殺そうとしているのだ。

烏帽子の怒りとは何か

烏帽子は病気の人たちの世話をし、仕事を与え人として対応している。

売られている女たちを救い、男女で差別しない心ある人間だ。

しかし、その中にも人間対する怒りが隠れている。

差別する人に対する怒り、女をひどく扱う人に対する怒りが心の中にあるのだ。

自身も売られてきた過去があるのかもしれない。

境遇はサンと同じで親に捨てられた過去があると、私は生まれただけで価値があると思えなくなってしまう。

2人とも自責の念を乗り越えておらず、怒りに身をまかせて本物の愛を知らずに争い合うのである。

他責で怒りに身を任せている祟り神は、相互依存の愛を知らないだけなのだ。

アシタカの怒り

アシタカは烏帽子の村にたどり着き、村人を助けもてはやされる。

夕食のシーンで村人は、アシタカの村にやって来た猪を殺した時の話を楽しそうに話している。

アシタカには自身の村を襲い、故郷を去る羽目になったことに対する怒りがあるのだ。

必死になって怒りを抑えているのが良くわかるシーンである。

病気の長の言葉

アシタカは火縄銃を作っているところに案内され、そこで死にかけの長に出会う。

彼は「生きることはまことに苦しく辛い。世を呪い、人を呪いそれでも生きたい」と言う。

この言葉に人生が詰まっているともいえる。

人生はとても苦しい。その苦しい出来事があったときに、世界に対する怒りで世を呪うが、それでも私たちは生きていたいのだ。

そして、生きることを諦めたら祟り神になってしまうしかないのだ。

その苦しみから逃れる方法は人々がアシタカになるしかない。

それを伝えているのがこのもののけ姫という作品である。

祟り神の呪いはいずれ死を呼び寄せる

もののけ姫と烏帽子がたたら場で直接対決するシーンでアシタカは言う。

「そなたたちの中には夜叉がいる。」

「みんな見ろ。これが身の内に巣食う憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ死を呼び寄せる呪いだ。これ以上憎しみに身をゆだねるな」

怒りに身を任せて他責でいると、いずれ祟り神になってしまい死を呼び寄せてしまう。

祟り神になり無敵の人として自身が破滅していくか、怒りを向けられた相手が攻撃を受け死んでしまうからだ。

烏帽子はとても強い人

アシタカが祟り神の呪いをみんなに見せていると、「わしらに僅かな不運を見せびらかすな」と烏帽子は吐き捨てる。

烏帽子は不運があったとしても、決して人に見せびらかしたりせず自分の弱さを隠しているからだ。

自分自身の弱さやダメな部分をたった一人でもいいので、愛してもらえると心の中の夜叉は消えていく。

世界中でたった一人でも見方を見つけることで、自分の弱さを乗り越えることができるのだ。

祟り神の下にある感情

祟り神(他責)の下にあるのが、自分のせいでこうなったという自責の念(罪悪感)の感情がある。

その罪悪感と向き合うことは苦しいので祟り神(他責)として隠す。

自責の念と向き合い続けると人は自分を責めることが辞めれず、鬱や精神病になってしまいいずれ死を選ぶので防衛本能として祟り神(他責)になるのだ。

また、祟り神に「お前のせいでこうなった」と怒りを向けられた相手は、「私のせいでこうなった」という自責の念に駆られる。

自責の念に駆られた人はいずれ、自分がこの世にいるから周りは幸せではないのだと死を選んでしまう。

だから祟り神はいずれ自身か他者の死を呼び寄せるのだ。

アシタカはこうなることを知っているので怒りを抑えているといえる。

他責と自責の下の愛とは

アシタカは怒りは死を呼び寄せてしまう、だから怒りに身を任せるなと言葉で人々に伝えている。

気を失ったもののけ姫を抱え出ていこうとするときに、夫を山犬に殺された女性が銃を向けながらアシタカを止める。

アシタカは怒りを向けられているが、怒りに怒りで返さずに「頼む。行かせてくれ」と言葉で伝えるのだ。

これが怒りから人を救う愛だ。

この愛の層に人々がいけることで争いはなくなり、他者を認め愛しあうことが出来るようになるのである。

自分の人生は自分で舵をとれ

アシタカは撃たれながらも、もののけ姫を連れてたたら場から去ろうとする。

門で止められるが、「私は自分でここへ来た。自分の足でここを出ていく」と言う。

自分の人生は自分で決めることが出来るのだ。

他人にとやかく言われたからといって、その足を止める必要はない。

アシタカはきちんと自他境界線が引けるのだ。生きる上でとても大事なスキルといえる。

祟り神を救うのは本物の愛

アシタカは目を覚ましたサンに殺されそうになる。

その首掻き切ってやろうかと凄い怒りを向けられている中、「生きろ。そなたは美しい」と伝えるのだ。

怒りを向けられてもこのように愛を返すことで、相手に気持ちが伝わるのだ。

アシタカが生きろというのは、もののけ姫は怒りに身を任せて森を守るためなら死んでもいいと思っているからだ。

それは共生とは言えず、どちらかが死ぬまで殺し合うことになる。生きることを諦めていることともいえる。

争い合い憎しみ合い戦争をしていることは、本当の意味で生きているとは言えないのだ。

自責の乗り越え方

アシタカが「そなたは美しい」と言うのは、サンは人間でも山犬でもなく醜い存在(自責)と自分で思っているからだ。

サンは美しいと言われハッと驚いている顔が印象的である。

自責を乗り越えるためには、自分のダメな部分も愛することで出来る。

しかし、自身でダメな部分を認めることはとても難しいので、愛する人にアシタカのようにダメなところも愛してもらうことで簡単に乗り越えること出来るのだ。

本物の愛とは

本物の愛とは、相手をそのまま受け止めることである。

どんなこともその人らしさと受け止め愛することが本物の愛だ。

相手のダメなところも受け止め愛せないと人は病んでしまう。

下記の記事を読めばなぜそのままの相手を愛せないと病んでしまうかが分かる。

シシ神様の正体

シシ神様は本物の神様で、昔は人々も神様の存在を感じることができていたのだ。

アシタカは祟り神の呪いを受けながらも生きることを諦めていなかったので、シシ神は命を奪わず銃で撃たれた傷を治した。

シシ神が祟り神の呪いを取らなかったのは、祟り神の呪い(怒り)は自身で乗り越えるしかないからである。

モロ母親の愛

人間に捨てられ山犬にもなれない可哀そうなわが子を愛しているが、それだけではサンは救えないのだ。

モロは山犬なので人間に対する怒りがある。

人間であるもののけ姫に対する怒りが心の底ではあるから、愛していないわけではないが人間であるサンを丸っとそのまま認めることが出来ないのだ。

母親ではあるが、わが子を正しく愛せない母親が描かれている。

毒親育ちも同じことが言えるのではないだろうか。

毒親の彼らは別の生き物であり、ただただ人間ではなかっただけなのかもしれない。

産まれた家族から去り、新たな人間関係で本物の愛を知る『人間』アシタカを探すことが人生とも言える。

祟り神の呪いは死を呼ぶ理由

目を覚ましたアシタカにモロが「辛いか。そこから飛び降りれば楽になれるぞ」と話しかけるシーンが描かれている。

祟り神の呪い(他責の怒り)の下にある自責の念は、自分のせいでこうなったと自分自身を責め続けてしまう。

自責と向き合い続けるとことは、「私がこの世界にいるからいけないのだ」といずれ死を選んでしまう程辛いことだからだ。

生きることを諦めず、楽になる道をアシタカは選ばなかったのである。

アシタカが言うサンと共に生きることはできるとは何か

アシタカは「あの子は人間だ。あの子を解放しろ」とモロに言うが、「黙れ小僧。お前にサンが救えるのか」と尋ねるのであった。

アシタカは「分からない。共に生きることはできる」と答える。

その人の自責の念である『私が生まれたことが罪』という罪悪感は、本人が私は生まれてよかったと思えないと乗り越えられないからだ。

いくら他人がアシタカのようにそなたは美しい、生きろとありのままを認め、あなたが生きてくれているだけで私は幸せと伝えてもその言葉が伝わらず、自分自身で自分を認めることが出来なければ自責の念は付きまとう。

だからアシタカは救えるかは分からないが、共に生きることはできると言ったのである。

ここでモロはアシタカに、サンを任せても良いと思ったのだ。

戦いは止まらない

あなたは生まれただけで素晴らしいと一度伝えただけでは、罪悪感は救われない。

たった一人を罪悪感から救ったとしても争いは止まらないのである。

世界中の人が私たちは生まれただけで素晴らしいと思うことが出来なければ戦争は終わりが来ないのだ。

乙事主が言葉を忘れた理由

乙事主はとても賢く穏やかな猪であったが、怒りが抑えきれず人間と共に生きる共生を選ぶことが出来なかった。

自分の一族を沢山殺され、追い詰められたことで怒りを抑えることが出来なくなり祟り神になってしまったのだ。

祟り神になると言葉が通じなくなり、サンの言葉も伝わらずモロの言葉も分からなくなってしまったのである。

シシ神に死んだ一族の猪たちを甦らせてもらおうとシシ神の住む森まで行くのであった。

モロがシシ神の森にいた理由

モロは人間を止めるために戦っていたが、止めることが出来なかった。

烏帽子は必ずシシ神を狙いに来ると読んでいたので、シシ神の森で待ち伏せをしていたのだ。

そこに祟り神になってしまった乙事主とサンがやってくる。

祟り神になり話が通じなくなった乙事主に対して、悲しみや呆れの気持ちが描かれている。

やれやれと言いながら、自分の娘を返せと最後の力を振り絞る。ここでも母親は強いという描写がある。

ジブリに出てくる母親がなぜ強いのか下記の記事参照ください。

シシ神が命を奪う理由

シシ神がやってきて祟り神になった乙事主の命を奪う。

怒りに身を任せて祟り神になり、生きることを諦めたから命を奪うのだ。

自分の中に怒りがあったとしても、祟り神にならず生きることを諦めずに生きていく。

それが人生だからだ。

祟り神になってしまう無敵の人はいずれ、誰かの命を奪い破滅の道をたどるということが描かれている。

神殺しがいけない理由

シシ神は首を撃たれ、森を破壊しだす。

神を殺すことで投影が起きてしまうからだ。

神を殺した私たちは神様に殺されるという投影が起きる。

神はそんなことで怒ったりしない存在であるが、自分自身でそう思ってしまうのだ。

「神を殺した私たちは、神に命を奪われてしまう」という投影が森の破壊シーンで描かれている。

このように投影が起きてしまうので神を殺してはいけないのだ。

投影の正体が自責の罪悪感

私たちは生まれる前は神様と同じところで生きていた。

この世に生まれる際に神様を捨ててきたと思い、神を捨てたからきっと神は私を怒っていると思ってしまう。

神はそんな短気ではないが、そう思ってしまうのだ。

神を捨てた私だから周りで不幸が起きてしまうと解釈する。

それが自責の念、罪悪感の正体で、『私がこの世に生まれたからいけないのだ』と思ってしまうのだ。

これは人間ならだれにでもある感情で、この罪悪感を乗り越えるための方法が描かれているのがもののけ姫だ。

アシタカの相互依存の愛とは

サンはシシ神を守れず、森も死んでいくため怒り狂う。

アシタカが手を貸してくれと頼むが、ブチギレているので「その女を連れてさっさとどっかいっちまえ」と怒りをぶつける。

サンからすれば敵を助けるお前も敵だという認識になるのだ。

いくらサンに怒りをぶつけられようとも、小刀で刺されようともアシタカは「そなたは人間だ。」と愛を伝え続ける。

サンの怒りの下にある森を守れなかった自分を責める悲しみや苦しみの感情がアシタカには分かるからだ。

怒りに狂った祟り神でもなく、山犬でもなく、そなたは言葉の通じる人間だと教え続けている。

祟り神にそなたは人間だと教え続けることが、相互依存の愛で本当の愛といえる。

怒りに怒りで返すのではなく、愛を伝えることで他責の祟り神や自責の罪悪感から人を救うことができるのだ。

罪悪感の乗り越え方はみんながアシタカになれると知ること

私たちは誰でもアシタカになれると知ることが罪悪感から解放される方法である。

私たちは相互依存の愛を知らないだけの祟り神に、愛はこういうものだと教えることが出来る存在なのだ。

なぜなら私たちは生まれた時から親に相互依存の愛を与えてきたからだ。

子どもはいくら怒られても親を愛することは辞めない。

生まれながらにして私たちは相互依存の愛を与えてきた存在なのである。

私たちは生まれてきたからすでにもう偉い。そうやって自分を認め愛することで他人にも寛容になれる。

すべての人がアシタカになるだけで平和が訪れる。

人生は生きていれば何とかなる

宮崎駿がもののけ姫で伝えたい一番のメッセージともいえるのではないだろうか。

サンは「森は死んだ。もう何もかも終わりだ」と言うが、アシタカは「まだ終わらない。私たちが生きているのだから」と言う。

おときさんも「生きてりゃ何とかなる」とみんなに言うのだ。

人生で嫌なことや、人生終わったと思うときがあるが、それでも生きていれば何とかなるのだ。

世を呪い恨んだりせず、祟り神なんかならずに生きることを諦めてはいけないのだ。

祟り神の呪いが消えたわけ

アシタカとサンは生きることを諦めず、シシ神に首を返したから祟り神の呪いが消えたのだ。

首を返すということは、新たな投影が起きる。

神様を殺した私たちから、神様を救う私たちという投影が起きるのだ。

神様を救う私達は、神に愛されるに違いない。

そう投影が起きることで、自分自身を愛することができる。

自身を愛することができると、それが周りに投影され、世界は美しく愛に溢れていると思うのだ。

このように自分を愛することで、祟り神の下にある罪悪感を乗り越えることができ心穏やかに過ごせるようになるのである。

これが祟り神の呪いを消す方法だ。

すぐに怒りは無くならない

森に緑が戻り、平和が訪れたがサンは「それでも人間を許すことはできない」とアシタカに伝える。

すぐに怒りは収まるものではないのだ。

しかし、アシタカは「サンは森で、私はたたら場で共に暮らそう」と伝える。

これが相互依存の愛で共生といえる。

ダメな自分やあいつが許せないというその気持ちも尊重しつつ、共に生きるという選択をとることが最大の愛だ。

そのままの相手の気持ちを尊重し、自分の人間を許せないという気持ちも尊重することで、次第に許せない相手を許すことができるようになる。

ダメな自分を許すことで、他人も許すことが出来るようになるのだ。

これがもののけ姫で伝えている、他者との共生といえる。

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