千と千尋の神隠し 伝えたい事 メッセージ 宮﨑駿 映画解説

千尋は現代の子どもたち

登場シーンはいかにも現代っ子のヒョロヒョロっとした不機嫌の少女が描かれる。

現代の子どもたちは、昭和の頃と比べて怒りの表現がダウナー系と言われるいわゆる引きこもり型だ。昭和の頃の若者たちは世の中や社会に対する怒りを学生運動などで表現することが多かった。これはアッパー系と言われる怒りの表現だ。

社会を自分たちの手で変えていく、変えていけるという信念や自信が確かにあったのだ。しかし、現代は、鬱々とした雰囲気や何をやっても世の中は変えられないという空気がまん延している。

そんな中で子どもたちは、自分の力で世の中や自分の人生を何とかしようという気力が失われつつある。

引きこもることや誰かに何とかしてもらおうとすることは、自分の人生を他人に任せているということだ。いわゆる生殺与奪の権を相手にゆだねている。幸せは誰かが運んでくるものではない。

誰かに何とかしてもらおうとしていると、たちまちその人は自分で生きていく力を失ってしまう。千と千尋の神隠しは自分の中にある生きる力に気づくことができる作品だ。

千尋の両親は親としてどうなるのか

千尋の父親は何ともバカっぽく描かれ、母親も子どもに一切興味がなさそうに描かれている。

ジブリで描かれる父性は大体頼りない父親だ。宮﨑駿の父がそうであったのかもしれない。千尋の両親は初めから親として機能していなさそうな雰囲気はあるが、豚になり完全に親として機能しなくなる。

危機管理能力も千尋の方が親よりも高く、早く帰ろうと言っているにも関わらず娘の声に耳を貸さず食事を始める。そんな聞く耳を持たない親を捨てて自分だけ帰ればいいのにと思うが、千尋は愛ある人間で親を見捨てることはなかったのだ。

親を見捨てないのは千尋だからではない。子どもはみんな親のことが大好きで愛を与え続けるのだ。千尋の両親のようにどうしようもない親に対しても、捨てることなく自分の力で救おうと頑張る強さが誰にでもあるのだ。

千尋の両親が豚になる理由

千尋の両親が豚になってしまうのは、そうでなければ物語が始まらないが、非常時に生き抜く力がなかったといえる。

食事をむさぼるシーンはカオナシが食事をむさぼるシーンと被る。両親も何かに飢えている人々だったのかもしれない。また極限状態に追い込まれたときに逃避してしまうと、千尋の両親のように豚になり食い尽くされてしまう。そんなときにこそ力を発揮し闘い生き抜く必要があるのだ。

現代社会ではどのような場面でも食い尽くされてしまうことがあるだろう。自分を利用する人に傷つけられたり抗う力を奪われてしまうのだ。

そんなことにならないように、自分の力を信じ戦い生きていくことが必要になる。また自分を傷つける人から去り、真っ当な大人に出会うことがその人の人生を大きく変えていくことにも繋がる。真っ当な大人とはハクやリン、釜じい、銭婆のような人だ。

真っ当な大人とは本当の愛を知り、本当の優しさを知り、相手の自立を奪わず、その人の生きる力を信じてくれる人だ。そして変わらず味方だよと伝え続け、そっとそばに居てくれる帰る場所いわゆる安全基地の機能を持つ大人だ。

人は安全基地を持つことで自由に生き、何かにチャレンジしたり行動を起こすことができるようになる。幼少期に親子で築き、親から離れ安全基地を外に広げていくことが本当の自立である。

それが出来なければいつまでも母子分離が出来ず密着が濃くなり、外の人間関係を適切に築くことができなくなってしまうのだ。

それは人として恐ろしいことである。親がいないと生きていけない人や、ある特定の人がいないと生きていけない人にしてしまうからだ。自分自身で人生を切り開いていき自分の力を信じること、また千尋のように成長し誰かの安全基地になることで自由に世界に羽ばたいていくことが可能になる。

千と千尋の神隠しの湯屋は風俗か

子供向けのアニメなので直接的な性描写は無いものの、大人になって鑑賞すると明らかに風俗であることが伺える。お風呂で体を洗い流すのは女たちで性的なサービスを彷彿させる。

確かに子どもが自分でお金を稼ごうとすると風俗に頼るしかないのかもしれない。そして、実際に親に頼ることが出来ない子どもたちは男であれ女であれ自分の身体を売ることで生きてかなければいけない人がいることも事実だからだ。

設定としては風俗だとしても、アニメとしては神様のお風呂屋さんというマイルドに描いている。子どもたちにもそういう世界を包み隠さず現実として教えていくことも大人の仕事であるといえる。

まっさらな美しいものしか知らない子どもは、悪を悪と見抜けずたちまち引きずり降ろされてしまう危険性もあるからだ。

世界は残酷で、優しい人だけでなく自分を利用しようとする人や悪意も溢れていると学ぶ必要があるのだ。しかし、そんな愛を知らない人にも愛を与えることでその人を救うことが出来る力があることも確かだ。千尋のようにカオナシを救うことが出来る人になるかは自分で決めることが出来る。

手を貸してくれる人を探すのが人生

迷い込んでしまった千尋を助けてくれたのはハクだった。ずっと千尋の味方だと言い続け、この世界で生きのびる術を教えていく。ハクは足が固まってしまった千尋に対し、まじないをかける。「そなたの内なる風と水の名において、解き放て」とセリフだ。

ここでも魔法で足を使えるようにするのではなく、千尋の内なる力を解放するために魔法を使う。これも言葉の魔法と言える。相手にかける言葉次第でその人に力を与えることも奪うこともできるのだ。ジブリでは全般的に作品に言葉の魔法が使われる。

ハウルの動く城のソフィーも言葉を操る魔女として描かれ、風立ちぬの菜穂子も言葉の魔法を使い夫を引き寄せる。中世の絵画で女性は魔法を使い男性を惑わすと考えられ、その絵画が多く残っている。風立ちぬの菜穂子が絵を描いていることと、宣伝の絵からもモネの日傘をさす女のオマージュであることが分かる。

釜じいも仕事に厳しいが、親戚の子だと言ったり疲れ切って眠っている千尋に布団をかけてあげるとても優しい心の持ち主だ。

リンも口は悪いが、礼儀の知らない千尋に礼儀作法や仕事を教えていく。このように親が機能していなくとも、周りにいる大人に育ててもらうことで成長することができるのだ。

このように千尋を利用しようとするのでもなく、何でもかんでも手を貸して本人の力を奪うのでもなく成長できるように手助けすることが本当の大人の仕事である。

釜じいの言葉に隠された人を支援するうえで大事なこと

千尋はまっくろくろすけが石炭を運んでいる際に耐え切れず潰れてしまった際に、石炭を持ち上げ手を貸してしまう。その際に釜じいは「手出したんならしまいまでやれ」と伝える。

このように人に手を貸したならば最後までやり切る責任が伴うのだ。困っている人に気軽に手を貸して、やっぱり無理ですと去っていくことは無責任この上ない行動なのだ。助けてくれると思ったのに、どこかへ行ってしまったというその人の傷つきにもなってしまうからだ。

最後までやりぬき支援する気持ちがないならば、安易に困っている人に手を貸してはいけないのである。

また、まっくろくろすけたちは千尋がやってくれると思い仕事を放棄しだす。これが、釜じいのいう「人の仕事を奪っちゃいけねえ」ということなのだ。

安易に助けて欲しいとも言われていないのに、手を貸してしまうとその人は自分でやり切る力を奪われてしまい、助けてくれる人がいないと何もできない人になってしまう。

これが人の自立を奪う恐ろしことでもあり、助けてほしいと言えない人にしてしまうことに繋がる。

本当の自立とは助けてほしいということを適切な人に伝えることが出来ることである。

湯婆婆が名前をとる理由

湯婆婆が名前を奪う理由はその人を自分の支配下に置くためだ。本当の名前つまり本来の自分を奪い別の人として生きることを強いられているのである。

まさにDVを受けている人といっていいのではないだろうか。本来の千尋を捨て千として振舞い生きていくことを強いられているのだ。

だから本当の自分を忘れ、千として生きることに慣れていくと帰り道が分からなくなるのである。本当の自分に戻ることが出来なくなってしまうということだ。

もののけ姫のアシタカのように自立した強い大人は、「自分の足でここへ来た。自分の足でここを出ていく」という自分の足で人生を舵取りしていく強さがある。自分というアイデンティティが確立されているからだ。

名前を奪われ自分という人格を失ってしまうということはとても恐ろしいことなのである。

背景が風俗という設定もあるので、源氏名という意味合いもある。

千尋のお腹が痛くなる理由

恐怖でお腹が痛くなるともとることはできるが、10才という年齢、風俗という設定を考えると初潮を迎えたという表現と考えられる。

その頃の子どもは心は子どものままだが、どんどん身体が大人になっていくことへ戸惑うこともある。

それは大人になるために必要な成長であるが、大人になる自分を認めることができない。それを親に表現することが恥ずかしいと感じてしまうのだ。

人間として当たり前の成長だが、大人の自分を認めることができないと性的な事柄に嫌悪感を示したり子どものままの自分でいようとする。

子どもから成長し、大人として恋人と大人の関係を築くことは人間として必要な成長なのである。本来の意味で大人になるということはこういうことなのだ。

千尋が大泣きしておにぎりを食べるシーンの意味

無事に仕事をする契約を交わすことができたが、まだ10才の子どもだ。夜も怖くて震え眠れないでいる。布団にくるまり何が起きるか怖くて仕方ない様子で目をぎゅっとつむっていると、ハクが「橋においでお父さん、お母さんに会わせてあげる」と言うのだ。

湯婆婆の前や他の職員の前では冷たいハク様を演じきっているので、千尋は何を信じていいのか分からなくなっていた。そんな中ハクがやって来て優しく声をかけるのである。

きっと心からほっとしたことだろう。

両親に会わせてもらうが、ショックでうつむいている。ハクは名前を忘れてはいけないこと、千尋のことを覚えていたことを話す。

おにぎりを差し出し「ご飯を食べてなかったろ、千尋に元気がでるようにまじないをかけておいた」というのだ。そのまじないこそが愛である。これを愛と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。

ジブリでは必ず食事シーンが描かれる。それも重要なシーンでだ。それは食べることが生きることに繋がるからである。

君たちはどう生きるかでも、眞人はヒミが作ってくれたジャムパンを食べるシーンがとても印象的だ。愛する人が作ってくれたご飯が元気の源でなによりも美味しいからだ。

千尋は初めてこのシーンで涙を流す。今まで怖くても泣かずに我慢していたのだ。そんな辛さもハクには分かっているのである。そっと肩に手を置いて辛かったろ、さ、お食べと言うのだ。

人生でこんな風に泣ける相手がどれだけいるかが、幸せに直結している。

ハクのような相手を見つけることが人生といってもよいだろう。苦しい辛い悲しい悔しいという感情を吐き出し大声を上げて泣ける相手がいることで人は強くなれるのだ。

泣いた後の千尋はとてもスッキリした様子でまた一つ成長を遂げている。ハクに「私頑張るね」と伝え元気よく走っていく。これが安全基地の持つ機能である。

押し殺した感情を吐き出しスッキリしたので、安心しきって釜じいのいるところで眠り仕事にも精を出していく。

感情とおならは我慢してはいけない。我慢すればするほど後に大きく爆破るするからである。千尋のように感情を吐き出せる相手が世界に1人でもいればそれで人生は生きやすくなるのだ。

おくされ神が草団子をくれた理由

千尋の元にいかにも臭そうなおくされ神がやってくる。実は名のある川の神様で人間の捨てたゴミにより汚くなっているだけだったのだ。

自然との共生や川を汚すことで神様が汚れてしまうことを現代の人間は忘れているということを伝えたいのだろう。神様をないがしろにし、そういう存在を忘れてしまう人々は生きることが苦しくなるのだ。もののけ姫でもそれを伝えている。神様を粗末に扱うとそれが投影され、私は神様に愛されないから嫌なことが起こる。こんな私は誰にも愛されないと世界が敵になるのだ。

神様とはどんなダメな自分も愛してくれる存在だ。どんな自分でも愛してくれる存在があることで人は自分を許し他人を許すことが出来るようになる。それが本当の自己肯定感だ。ダメな自分もそれはそれで素敵じゃないと愛するということが本当の自己肯定が高い状態といえる。

こういう神様の存在や母なる大地の自然という大事なことを忘れた人間は、豚のように喰われるか頭をなくし鳥のように卵を産み続けるしかなくなるということである。

私たちは神様に愛され守られていると思うことで、母なるものへの依存も乗り越えることができる。宗教が昔から現代まで残され続けているということは、昔から人間の悩みは変わらないということである。そういうものを大事に扱い生きていくことの重要さを伝えている。

川の神様は臭くても逃げずに立ち向かってくれた千尋だからこそ、草団子をくれたのである。逃げだしたり立ち向かう気持ちがなかったら決して助けてくれはしなかっただろう。

仕事をやり切って自信をつけた千尋

おくされ神を綺麗にして、砂金が出てきたことで湯婆婆から褒められる。みんなからも歓声を浴び、実に自信ありげで誇らしい表情をしている。

最初の登場シーンとは違い自身のなさそうな雰囲気は全くなく、自信に溢れている良い表情をしている。これが人々の生きる力になるのだ。

千尋は非常時でも負けない生き抜く力があったといえる。それはきっと誰もがもっている自分自身の内なる力だ。千と千尋の神隠しはその自身の内にある生きていく強さに気づかせてくれる作品だ。

カオナシの正体:依存症

千尋はハクの前でぐしゃぐしゃに泣き、自分の苦しみを吐き出し成長した。またそれにより元気を取り戻したので、誰かを救う力を手に入れることが出来た。自分が幸せでなければ人を救うことはできないからだ。

だからカオナシに優しく接することが出来た。雨の中立っているカオナシに対して、「ここ開けときますね」と心優しく受け入れるのである。

優しく接して入ってきていいよと手を出したからには、最後までカオナシに向き合う必要がある。釜じいのいう、手出したんなら最後までやれということだ。

カオナシは依存症である。母なるものへの依存があり、愛されたいと強く望んでいる。

食べても食べても満足できないのは過食であり、根本的に愛に飢えているのでいくら食べても満たされることがない。他の依存症も同じである。愛の代替え品としてお酒やたばこギャンブルなどがあるのだ。あらゆる依存症は母親のおっぱい、つまり母なるものへの依存が残されているのである。

人間は誰でも依存心はあるので、それをなくすことは難しいが心身共に健康を害さないものへ依存するのが良い。そして、愛の代替え品として依存するのであるから、千尋のように苦しい辛いと泣ける相手を見つけることで乗り越えることが出来る。

カオナシは本当の愛を知らない

カオナシは千尋の愛がほしいために、千尋のためになんでもしようとする。千尋が助けてほしいという前に手を貸しお湯の札を出したり、金をだして与えようとしている。

お金を与えたり相手の欲しいものを与えることが愛情と勘違いしているのである。そしてお金を与えることが愛情と思っているので、お金を与えたら愛が返ってくるとも思っている。

とても押しつけがましい愛情である。挙句の果てに千尋に「もっと欲しがれ」と怒るのだ。それは本当の愛ではない。本当に愛している人が、私の愛をもっと欲しがれと怒るだろうか。本当の愛とはその人はその人らしく、ありのまま生きることを尊重されることだ。

何でもかんでも与えてしまうとその人は自分の足で歩くことが出来なくなってしまう。自分がいなくても1人で生きていくことが出来るように自立を促し支えることが本当の愛である。そうでなければ、自分がいなくなったときにその人は生きることができずに死ぬしかなくなるからだ。

本当の愛とはハクのようにそっとそばにいて支えようとする目に見えない愛情だ。元気がでるようにとまじないをかけることは目には見えなくとも確かな愛だ。

この目に見えない愛情こそが本物の愛である。目に見えるものばかりに囚われるとカオナシのように本当の愛に気づくことが出来なくなり、愛して欲しいと叫び続けてしまうのだ。

千尋に「そんなのいらない。どこから来たの?お家が分からないの?」と質問攻めにされ、カオナシは苦しむ。「寂しい、寂しい」とつぶやくのだ。

心の安全基地がなく帰る場所がない人はこのように、空虚感や寂しさに支配されてしまうのである。親が安全基地として機能せず、千尋のようにハクと出会うことが出来なければどこから来たのか分からなくなり、帰る場所がなくなってしまい愛を求め続けるのだ。

そんなカオナシに対し、心優しい千尋は両親にあげるつもりの草団子を与える。深い愛情がそこにある。

これをできるようになったのは、千尋がハクや釜じい、リンに愛を与えてもらったからだ。本当の愛を知り愛を与えてもらう側の子どもから、愛を与えることのできる大人へ成長しているのである。

千尋があなたに私の欲しいものは出せないという理由

千尋の欲しいものとは一体何だったのか。本当の愛はハクからもう既に手に入れることが出来ているので、本当の愛ではない。

自分でやり切る力のことと考えられる。また誰かを自分の愛で救う、自分自身が大きな愛になることや自分を信じるという強さのことだろう。

両親を元に戻すということでもない。両親の元から成長し自分で生き抜く力を学ぶことが出来たので、親を求めているわけではないのだ。

むしろ親を必要としなくなっている。ハクや愛してくれる人の幻想の世界から現実世界へ戻り生きていくことを選べるか、幻想の中で生きていくのを選ぶのか。

現実に戻り悪意のある世界でも生きていくことを選ぶ力のことかもしれない。

千尋は最後までやり切る力を手に入れた

ハクが銭婆の印鑑を盗んできたことにより、攻撃を受けて傷だらけになり死にかけてしまう。そのハクを千尋は死んでしまうと助けようとする。

草団子を食べさせ、腹の中にいた虫をやっつける。ハクがやってしまった悪事に対し、千尋が謝りに行くという究極の愛がある。これこそダメな相手でも許し愛するということだ。

千尋は愛を与えてもらう子どもの依存時代から成長し、愛を与えることのできる自立側の大人になっているのだ。

ハクは名前を奪われ悪事に手を染め、人の心や優しさを失いつつあった。人の心を亡くし、人間に戻ることが出来なくなるということだ。名前を忘れ自分を忘れたら帰り道が分からなくなるということは、怒りに身を任せ祟り神になってしまうと人間に戻ることが出来なくということである。

人の心を忘れ、人間ではなくなってしまい暗闇の中でもがいると千尋の声がしたのだ。こっちだよ、帰っておいでと愛を与え続ける人がいることで、人間の心を亡くした人を人間に戻すことも可能なのだ。

千尋は銭婆に印鑑を返しに行く。釜じいに電車は行きしかねぇと言われても、臆することなく歩いて帰ってくる!と元気よく答えるのだ。カオナシに対しても堂々と接し、ここにいるからだめなんだよと連れていく。とてもたくましい姿である。

千と千尋の神隠しの電車の意味

電車で銭婆の住んでいる家まで行く。その途中に黒い影が出てくる。千尋の迷い込んだ世界は神様の来る世界なのであの世と考えられる。

電車が使われているのは、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を彷彿させる。銀河鉄道の夜もジョバンニとカンパネルラが鉄道で旅をしていく物語だが、実際はカンパネルラは川で溺れて死んでおり最後のさようならをする喪の作業でもあった。

このことからも、ハクは千尋が川で溺れかけた際に助けて溺れ死んだ兄という説が濃厚になる。千尋の一家は最後の喪の作業をするためにあの世界へ迷い込んだのだ。この説に関しては後に記載したい。

銭婆も本当の愛を知る人

銭婆も本当の愛を知る優しさ溢れるおばあちゃんだ。印鑑を返しにやってきた千尋たちに対し、お茶やお菓子をだしもてなす。実に温かい気持ちになることが出来るシーンだ。

千尋がうずくまり考え悩んでいる際もヘアゴムを作りながら必要以上に介入せず優しくそばに居る。このヘアゴムも目に見えない愛情に溢れている。

銭婆が「一度あったことは忘れない。思い出さないだけで」という。一度あった嫌な思い出は生存本能で記憶が強化され忘れにくいが、楽しい思い出もあったことは忘れないのだ。

千尋は引っ越しに伴いかつての友人たちの別れを経験している。その友人たちの思い出を手放すことが出来ず、新天地へ行くことが嫌なのだ。またハクが兄で死別をしているのならば、大事な人との別れという喪失たいけんだがある。たとえ死別してもその人と過ごした瞬間や経験した時間は決して奪われることのないものである。まさに思い出すことが少なくなるだけで決して忘れることはないのだ。

死別した人との思い出や過去に縛られ生きてしまうと、自分の人生を生きることができなくなってしまう。悲しみの中で生き続けることになるからだ。

死別した人を忘れてしまうのではないかという恐怖から忘れたくないという執着になっていく。しかし、一度あったことは決して忘れることはないのだ。なかったことにはならないのだから、安心してその人への執着を手放すということでもある。

だから最後のシーンで千尋とハクの手をこれでもかというくらいアップで描く。ハクへの執着を手放したと言える。

成長した千尋

うずくまり考え込んでいるが、「やっぱり帰る」と言い出す。銭婆のところに居れば仕事もしなくていいし安全でだからだ。またやっぱり帰るということは現実世界へ帰るということでもある。

ハクや釜じいリン銭婆という温かい愛ある人に囲まれて幻想の世界で生きていくことは楽なことかもしれない。しかし、千尋は世界が残酷であっても現実世界へ帰って現実世界で生きることを選んだのだ。

ハクは千尋の兄で川で死んでいる説

ハクの背中に乗り帰っていくときに千尋は幼い頃に溺れた話を思い出す。そのシーンで印象的なのが川の中へ人間の手が入っていくシーンだ。明らかにハクの手である。

ハクが浅瀬へ運んでくれたんだねと千尋は言っているが、川の神様が浅瀬へ運んでくれるという奇跡的なことがあるならば水難事故は起きないだろう。

兄であるハクが千尋を助け溺れて死んだことにより、その川の神様になったと考えたほうが良い。その川が埋め立てられハクは行き場所をなくし湯婆婆の湯屋へやってきたと考えられる。

千尋の母親が千尋に対して異常に冷たいのは、女である母親ともとれるが兄を失い千尋を恨んでいるようにも取ることが出来る。また子どもを死別で失い辛かった人は、更に失うことが怖くなりその子を好きになることを制御しだす。また誰かを失うと心が持たず辛すぎるのでそのようにして心を守ることがあるのだ。これが回避と言われる反応だ。

ハクが千尋を見た時に、千尋の幼い頃からしっていると言っている。近所の川の神様だからといって幼い頃から知っているよと言うだろうか。兄であり生まれた時からしっているからと考えたほうが説明が付く。

電車のシーンも銀河鉄道の夜のオマージュとすると、川で死んだ人と取ることが出来る。

最後の振り返ってはいけないよの意味

最後の別れのさいきっとまた会えるよね、うんきっと。という話をするが、それは今世で会えるという話ではない。きっとまたいつか巡り合うことができるという時代を超えた愛であり別れなのだ。

ハクたちの住む世界はあの世であるので決して振り返ってはいけないよという。それは神話のイザナギ、イザナミの物語でもある。現世に帰るまでは振り返ってはいけないと言われていたが、振り返ってしまい死んでいる妻のおぞましい姿に驚いてしまいというストーリーだ。

死んだ人とは一緒に暮らすことはできず、さようならをして振り返らずに生きていくしかないことでもある。

最後の別れで手が印象的なのは、安全基地であるハクから巣立つ千尋を表現している。子どもが親の元から巣立つような手放していくようにも見える。

また、今世ではもう会うことはない別れの寂しさも描いているように見える。ハクの手だけが残されているのがそういうことだろう。ハクは死んでおり、今世でハク千尋の兄として会うことはもうないと分かっているからこそのあの残された手だろう。自身も同じように一緒に帰りたいという気持ちを抑え、千尋が生きていけるように励ましている。その愛が私には見えた。あの手だけしか描かれていない一瞬のシーンだけで、何度観ても切ない気持ちになるのは宮﨑駿のなせる業だ。

湯屋の前にある川が三途の川であるので、ハクは亡くなっている人である。

千と千尋の神隠しが伝えたいこと

愛する人との別れは仏教でも愛別離苦と言われるほど辛いことだ。それでも人生は続いていく。きちんとお別れをし、自分の人生を生きていくのだ。

千尋のように適切な大人に本物の愛を与えてもらい、生きる力を手に入れることでこの先の見えない世界でもたくましく生きていくことができるのだ。

子どもたちには適切な大人に助けて欲しいと言える力や、自分の手で人生のかじ取りをしていく力があるという自分の内なる力を信じることの大切さを教えてくれる作品になっている。

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