鬼滅の刃作者が伝えたいこと【鬼滅の刃解説】
鬼殺隊に孤児が多い理由
鬼滅の刃が描かれる時代背景に、孤児の存在がある。鬼殺隊に入隊する子どもたちはいわゆる孤児だ。鬼に家族を殺された者が集まりお館様の下で鬼殺しを行っている。
冷静に考えれば、孤児を集めて何やってるねんとツッコミどころ満載である。お館様は本当に信用して良い人なのか怪しい。しかし、鬼殺隊の隊員を私の子どもたちと言い、愛している様子もある。
鬼に家族を殺された者たちの復讐劇と捉えると、孤児でなければならない理由がある。怒りの原動力がそこにあるからだ。復讐心という強い怒りがあるからこそ、鬼退治をやり遂げることができるのだ。
鬼滅の刃怒りの原動力
富岡義勇が言うように、許せないという強い怒りは足を動かす原動力にもなる。生半可な覚悟では鬼を殺すことも妹を治すことなど出来ない。
こんな世の中間違っていると社会に対する怒りがあることで世を動かしていく。そんなときに生半可な覚悟では何も変えることはできない。それどころか、やり遂げることすらできないのだ。
まして鬼を相手にしているのだから、適当な気持ちでいると自分が殺される可能性すらある。生半可な覚悟で鬼に戦いを挑み死ぬことすらあるのだ。鬼退治とは命を懸けた戦いなのである。
鬼滅の刃の鬼とは
人間の心を無くし鬼になった人間、つまり殺人犯などだ。いたずらに人を傷つけようとする時点で人間に戻ることができなくなる。人の命を踏みつけにする行為に一度でも手を染めてしまうと人間に戻れなくなってしまうのではないだろうか。
それでも各々の正義によって人殺しは正当化される。自分の家族が目の前で殺されそうになっていたら、私はその相手を迷いなく殺すだろう。このような悲劇の連鎖を止めるためにも、炭次郎は悩み考え進み続けているのだ。
もののけ姫でも祟り神の呪いはいずれ人の命を奪うと伝えている。怒りに囚われた鬼たちは人の命を奪い、いずれ自身の命も失うことになる。どうすれば私達人間は鬼にならずに済むのか、鬼を人間に戻すことが出来るのか考えさせられる。
鬼滅の刃作者の伝えたいこと
鬼滅の刃は鬼になった人を、人間に戻す方法などあるのだろうかと問うている作品だ。作中に出てくるキャラクターもそれぞれ鬼に対する想いが違う。鬼とわかり合うことは出来ないと考えている人、鬼と共存できないか考えている人、鬼を人間に戻す方法を考えている人それぞれだ。
現実の世界でも、各々の価値観がある。殺人犯は到底許すことはできない。人殺しになった時点で人間に戻ることは出来ないのだという意見が一般的ではないだろうか。
しかし、作者は鬼にも鬼になる悲しい生い立ちや恵まれなかった運命があることを描いている。現実でも炭治郎のように、家族を殺されたとしても鬼にならず生きている人もいる。
鬼になる分かれ道は、苦しい現実があっても辛かったねと支い合える仲間に出会うことが出来たかどうかで変わってくる。暗闇から救ってくれる真っ当な大人に出会うことが出来た人間は幸運なのだ。
鬼殺隊の隊員はお館様や真っ当な”人間”に出会うことができ、鬼にならずに済んだのだ。
本当の大人である”人間”に出会えるかで人生は変わる
真っ当な人間に出会えなかった不運な子どもたちは、生きるために人の命を踏みつけにするしかない。それが生きるための唯一の方法だからだ。
虐待をする親の元に生まれ、正しい愛を教わることがなかった子どもは誤学習をし間違った人間関係に陥る。子どもを搾取し奴隷化する人間ではなく、自由を望み愛を与えることができる本当の大人に出会えるかで人生は変わる。それが本当の愛で安全基地だからだ。
人殺しはいけない、盗みはいけない、犯罪はいけない。安全なところで生き保護され育ったものには分からないし、分かろうともしない。安全なところから意見をすることは誠に簡単だ。戦争がひとたび起きれば、現代の日本人のどれほどが犯罪を犯さず真っ当にいることが出来るだろう。
自分の家族を殺されたり、犯罪に巻き込まれたり、それでも鬼にならずに生きることができるのか。大抵の人は炭治郎のように強く出来ていない。たちまち同じような鬼になってしまうだろう。
そのことを一度でも考えたことがあるのだろうか。自分は大丈夫と思っている人間こそ、傲慢で愚かな存在だ。誰かからみたら、あなたの正義は正義ではないということを考えなければならない。
私こそが正しく正義であると思い始めることが、新たな争いや犠牲者を生むことに繋がるのだ。
悲しみの連鎖を止める
炭治郎がお館様に初めて会ったときに『悲しみの連鎖を止める刃を必ず振るう』と発した。このセリフに作者の想いが詰まっている。
作者は悲しみの連鎖を止めるために、鬼滅の刃という作品を描いたのだろう。
鬼殺隊の子どもたちも鬼に家族を殺されている。それでも鬼にならずに生きる道を選んでいる。想像を絶するほどの痛みや苦しみを抱えているはずだ。
辛く苦しくとも鬼にならずに済んだ彼らだからこそ、悲しみの連鎖を止めることが可能だ。トラウマを乗り越えることが出来た人間は、他の誰かを救う力を得ることが出来る。
虐待をする親の元に生まれることは親ガチャというように、不運でしかない。それでも、虐待の連鎖つまり悲しみの連鎖を止めるためには己で刃をふるわなければならないのだ。
外の誰かが悲しみの連鎖を止めることを望み待ち続けるのではなく、自分の手で刃をふるう必要がある。自身のトラウマは自分の手で乗り越えるしかないからだ。その強さが生きる上で重要になってくる。
自分を利用し搾取するだけの存在から離れて、真っ当な大人で自己成長に繋がる人間と出会う運が必要になる。また、他者と出会いに行き付き合う相手を選択する能力も必要だ。
逃げた先が鬼の巣ならば、鬼にされてしまう。誰と付き合うかは選択しなければならない。生まれや生い立ちを変えることはできないが、誰と過ごし生きていくかは自分の手で選ぶことが出来るのだ。
鬼滅の刃の鬼とは
鬼滅の刃の鬼は人間を食べる。人殺しを行っている元人間だ。人の心を失い、鬼になってしまった不運な人と言えるだろう。ただ単に人殺しはいけないと伝えるだけでなく、鬼にも鬼になる理由や背景があったのだと教えてくれる。
鬼になってしまった人には、助けてくれる大人や仲間がいなかった。そして、本当の愛に気づくことが出来なかったのだ。
炭治郎も鬼になる要素が沢山ある。家族を全員殺され、妹は鬼になってしまった。それでも禰豆子に鬼になんかなるなと叫び続けた。
炭治郎が鬼にならずに済んだのは、妹がいたからだろう。守るべき存在があると人は強くなれる。妹を治すという生きる意味があり、腐らずに済んだ。そして元々親の愛を十分に受けて育っており、本当の愛を知る優しい少年なのだ。
そして、富岡義勇に出会うことで救われる。生殺与奪の権を他人に譲らせるな!と初対面から怒鳴られる驚きのシーンであるが、とても心優しい人だ。
炭治郎に生きる術を教えていく。更に鱗滝さんに紹介し、導いていく。
そこには、富岡さんの希望もあった。この子なら鬼を人間に戻すことが出来るかもしれないと一路の望みを見出したのだろう。
ここで富岡さんと出会っていなければ、炭治郎は禰豆子を元に戻すことを諦め鬼として生きることを選んだかもしれない。
人間はそれほど弱く脆い存在だ。簡単に鬼になってしまう。私は強いと思っている人間こそ、気を付けなければならない。その思考こそ逃避と呼ばれる心の防衛本能かもしれないからだ。
禰豆子が鬼になった理由
禰豆子は無惨に目の前で家族を殺されるという、強烈なトラウマ体験がある。許せないという怒りに囚われ我を忘れ炭治郎さえも傷つけようとする。
怒りに囚われてしまうと、見境が無くなり大切な人さえ傷つけてしまうのだ。そして炭治郎に対する怒りもあるのかもしれない。お前がいなかったせいで全員殺されたという怒りだ。
それでも炭治郎に鬼になんかなるなと声をかけ続けられ、人を殺さずに済んだ。炭治郎を襲っているときに目に涙を溜めているのは、怒りの下に強い悲しみが隠れているからだ。
怒りは二次的感情であり、必ずその下に隠された感情がある。大抵、悲しみなどである。禰豆子も強い怒りの下に大きな悲しみを抱えてしまったのだ。涙が止まらないほどの苦しみや悲しみが抑えきれず怒りとなって表現されてしまうのである。
その時に炭治郎が怒りを向けられても向き合い愛を与え続けることにより、落ち着きを取り戻すことが出来たのだ。
もののけ姫の主題歌にもあるように、悲しみと怒りに潜むまことの心がある。それを知るのはもののけたちだけなのかもしれない。
鱗滝さんのセリフ「判断が遅い」
鱗滝さんが炭次郎と初めて出会った際に「判断が遅い!」と注意を受ける。続けて「妹が人間を襲ったら、妹を殺しお前は腹を切るしかない」と言う。
現実世界で考えると非情な発言に聞こえるかもしれないが、とても真っ当で愛のある優しい人だ。この時に炭治郎を見限り、放置してもよかったはずだが手を貸すことにしたのだ。
鱗滝さんの発言は真っ当だ。鬼になってしまった妹を決して殺人鬼にしてはいけない。
殺人を犯すものは通常の思考で判断できているとは到底思えない。だいたい精神疾患を抱えていることだろう。その人の苦しみや悲しみを受け止めてくれる人がいなかった不運な人なのである。だからといって、人殺しが許されることではない。
鬼になるか、人間であるかは怒りの攻撃性が他者か自分に向くかどちらかで違ってくる。許せないという強い怒りを世界や社会のせいにした人は、たちまち鬼になる。怒りが自身に向かえば鬱状態になってしまう。
ストレス反応を受けると人間は交感神経が過剰に揺れる。交感神経が優位になれば攻撃性が増し、副交感神経が優位になれば鬱状態となる。
その怒りや悲しみの連鎖を止めることが、人間としていきていくための術である。人を呪い恨み怒りをぶつけてしまえば、相手を傷つけることになる。その傷つけられた相手がまた誰かを傷つける。悲しみの連鎖が起こるのだ。
禰豆子が罪なき人を殺すという本当の鬼になってしまうことは絶対にあってはならないことなのだ。そうしなければ、例え人間に戻れたとしても人殺しという罪を背負って生きていく人生になってしまう。
鱗滝さんに拾われた炭治郎と禰豆子
厳しいながらも、炭治郎に剣術を教えていく。このように、孤児であっても真っ当な大人に生きていく術を教えてもらえた子どもは幸運だ。
鱗滝さんが厳しくするのは、生半可な覚悟では鬼に殺されてしまうからだ。厳しくしないほうが優しくないと言える。きちんと教え込まれなければ命を失うことになるからだ。
そして、最終戦別に行かせるつもりはなかったと涙ながらに語る。これこそ本当の大人で人間だ。決して子どもを利用し搾取しているわけではない。「よく頑張った」と炭治郎を抱きしめる。涙を浮かべながら黙っている炭治郎はどれほど救われただろうか。
このように苦しく辛い境遇にあったとしても、搾取する鬼ではなく、人間と出会うことで炭治郎のように救われる。
炭治郎が鬼殺隊の入隊試験に向かい、無事に炭治郎が帰ってくる。
一人で命を懸けて戦い抜き、妹を目にした瞬間に安堵し涙を流す。とてもほっとしたことだろう。その様子を見た鱗滝さんも2人を抱きかかえ、「良く生きて戻った」と涙を流す。
炭次郎には辛かったと号泣しても受け止めてくれる人がいた。ここに炭次郎の強さが隠されている。
妹を元に戻すために、自分も辛いはずなのに涙をこらえていた。その辛かった苦しかったという感情を押し殺すと、カナヲや時透のように乖離を起こしてしまい感情が失われる。
辛かったときに、辛かったと泣ける場所や安全な人がいることが重要なのだ。親を失った炭治郎にとって鱗滝さんは新たな安全基地である。辛かったよと涙を流し、辛かったねと受け止めてくれる相手がいることで人はまた歩き出す力を得る。
安全基地があるかないかで、人は鬼にならず生きていくことができるかの分かれ道になる。
鬼滅の刃痣の意味
始まりの剣士たち全員に鬼の模様に似た痣が発現していた。鬼にも痣が発現しているということが分かる。
時透の痣が発現したときの状況は、双子の兄が殺されたことを思い出し、強すぎる怒りで感情の収拾がつかなくなり、心拍数は200を超え、体温は39度以上になっていた。
そこで死ぬか死なないか痣が出るものと出ない者の分かれ道となる。
時透は双子の兄を殺されたという強すぎるトラウマを自分の心を守るために、解離性健忘という人間の持つ自己防衛本能で記憶をなくしている。そうしなければ、彼の心は壊れ生きていくことができなかったからだ。
しかし、鬼殺隊の仲間や炭次郎にであい、辛かった過去を思い出しても生きていける状況が整った。自分を守ろうとしてくれている人の命が脅かされているときに、過去のトラウマを思い出す。
痣の発現はPTSD発症のタイミングと言える。時透も兄が殺されていることを記憶から亡くしているが、似たような状況でその記憶を思い出した。いわゆるフラッシュバックである。
過去のトラウマと向き合うことはとても辛く苦しいことである。ましてや時透のように、記憶を無くすことで自分を守っているくらいの辛い体験は、とてつもない苦痛を伴う。
過去の辛かった出来事を思いだす瞬間は、許せないという強い怒りの感情が溢れ制御できなくなる。そして、苦しく辛すぎるので鬱状態にもなり死にたくもなるのだ。なぜ私がこんなめに。普通に暮らしていただけなのに。兄を救えなかった自分の無力感さえ感じてしまう。
その状況を乗り越えることが出来きるかどうかで、死んでしまうか、痣が発現するかの違いなのだ。
炭治郎の痣
炭治郎は元々父親を病気で亡くしている。その際の心の傷がトラウマになっているのだ。
家族を鬼に殺され更なるトラウマを植え付けられる。そのトラウマの乗り越え方こそ、鬼滅の刃で伝えていることなのだ。
トラウマいわゆるPTSDが発症してしまうと、無力な自分に苛まれてしまう。自分が無力だから人を救えない、鬼を退治できない、誰も救うことが出来ないと感じてしまうことでPTSDは発症する。
次第に、私が生まれてきたことが全ての元凶なのだとさえ思ってしまうのだ。これが本来のトラウマである。
鬼滅の刃は私たちが生まれてきた意味とは何か…それを問うている作品だ。ジブリ、進撃の巨人、すずめの戸締りなどどれもトラウマの乗り越え方を教えてくれている。
炭治郎は家族を殺されるというトラウマを抱えながらも、自分の命よりも大切な妹を守り人間にもどすために生きている。悲しみの感情を抑圧したりせず、その悲しみと向き合いながら鬼殺隊に入隊し前を向いて歩いているのだ。
煉獄さんが死んだときに痣が発現しなかったのは、守られる立場だったからだ。刀鍛冶の編で痣が発現したのは、守ってくれる煉獄さんもおらず、自分のしくじりでみんなが死んでしまうという状況になっている。
その時に、自分の無力で人が死んでいった状況を思い出し、フラッシュバックが起こり強い怒りの感情が湧いているのである。そして、それを乗り越えることが出来きた人が痣を発現できるのだ。
鬼に痣がある理由
鬼にも不運な境遇があり、踏みつけにされてきた背景がある。そのときに助けてくれる真っ当な大人や仲間に出会うことが出来ず、鬼と出会うことで鬼になってしまった人たちなのだ。
辛く悲しい現実があったときに、無惨のように相手を利用し搾取する人に出会ってしまうとたちまち闇に引きずり降ろされてしまう。孤独な人を狙う鬼がこの世にはいるからだ。
鬼にもトラウマがあり、そのトラウマと向き合ったときに鬼になることを選んだ人たちなのである。妓夫太郎のように、奪われる前に奪え、自分が不幸だったから他人の幸せを許せないと人の幸せを奪うのである。
そうなるには理由がある、助けてくれる人間がいなかったからだ。鬼殺隊のように仲間に恵まれ支えられた人は救われる。
ただただ不運な人たちなのだ。しかし、不運な背景を認めることはできても、人を踏みつけにしていい理由など一つもない。それが炭治郎の価値観だ。
鬼にも鬼になる背景があると、優しさを向けることのできる炭治郎だったからこそ、禰豆子を人間に戻し、無惨に打ち勝つことができたのではないだろうか。
鬼が日の光を克服する理由
禰豆子が日の光を克服するエピソードがある。鬼は日に当たると灰になり消えてしまうが、禰豆子はそれを克服する。
鬼が日の光を克服するために必要なことは、『自己犠牲』ができるかどうかだ。
他人のために自らの命を投げ出し、助けようとしたことで禰豆子は日の光を克服し言葉を取り戻す。禰豆子が言葉を失った理由は、家族を目の前で殺されたショックから緘黙という障害を発症している。
鬼にも鬼になる理由があるように、禰豆子も家族を殺戮されるというトラウマから緘黙になり、怒りに囚われ鬼にもなってしまった。
しかし、鬼になってもありのままの禰豆子を愛してくれる炭治郎がいたため、人を殺さずに済んだのである。
鬼殺隊に入る子どもたちも、大きなトラウマを抱えている者たちばかりだ。彼らが鬼にならずに済んだのは助けてくれる真っ当な人間がそばにいたからだ。
悪の道に引きずり込むのではなく、悲しみの連鎖を止めるべく戦う術を教えていく。この悲しみの連鎖を止める方法こそ、トラウマの乗り越え方だ。
誰と出会うかで人生は幸にも不幸にも変わる。生まれや育ちが悪くても真っ当な人間と出会うことで、その人は救われる。そんな相手に出会えた人は幸運だ。そのような人間を求め生きていくことが人生と言えるだろう。
煉獄さんに痣がない理由
煉獄さんに痣が発症しなかった理由は、アイデンティティが確立されており強すぎたからだ。猗窩座に「お前も鬼にならないか」と聞かれるが、「お前と俺では価値観が違う」と突っぱねる。
煉獄さんは自分という価値観が確立しており、鬼になんかなるわけがないと志高めの意識高い系男子だったのだ。
煉獄さんの母親は病死しているがちゃんと愛されており、生まれてきた意味を教え込まれている。代々鬼殺隊の柱という恵まれた環境に生まれとても恵まれており、鬼になる人の背景や苦しみが分からない。また、家族を殺されるほどのトラウマを負っていない。
母親は病死しているが、生まれてきた意味を教え込まれているので、私が生まれてきたことで母は死んだというトラウマを負っていないのである。
このように、私が生まれて来たことで周りの人が死に不幸になると思うことが、本来の意味でのトラウマである。私は生まれてきてはいけなかった命と思うことがトラウマの正体だ。
また、猗窩座のことを怖いとも思っていない。自分の力でやり遂げるという自信に溢れているのだ。
母親から「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」と生まれてきた意味や責任を英才教育されているのだ。
そのためアイデンティティが確立しており、揺るぎない信念がある。強く生まれた者として、鬼殺隊の柱として生きる人生が当たり前なのだ。家族を殺されたから鬼に復讐するというわけではなく、鬼殺隊として弱き人を助けることが私の人生だという強い信念があるのだ。
煉獄さんの父親もアルコール依存症になっている。妻が死に色々と考えることがあったことだろう。いくら頑張ったとしても鬼を滅することなど出来ないと、自らの無力感もあったはずだ。
そんな父親に認められようと煉獄さんは鬼殺隊の柱になる。鬼殺隊の柱になったと報告をした煉獄さんに対し、父親は「それがどうした。どうせ大したものにはなれない。俺もお前も」と突っぱねる。なぜ父親がこうなってしまったのか・・と考えるも、考えても仕方なのないことを考えるな。と心で唱える。
自他境界線がはっきりしているのだ。父親が剣士をやめ飲んだくれているのは父親の責任で、煉獄さんが考えてもどうしようもないことだからである。
煉獄さんの父親は何者かであることに固執した。ナルシシズムを乗り越えることができなかったのだ。
「父は認めてくれなかった。そんなことでは心の炎は消えることはない。俺は決してくじけない。お前は俺とは違う。お前には兄がいる。兄は弟を信じている。どんな道を歩んでもお前は立派な人間になる。燃えるような情熱を胸に頑張ろう。頑張って生きていこう。寂しくとも」と弟に伝える。
何者かになるために産まれてきたのではなく、どんな道でも立派な”人間”であることが大事だという確立した信念があったのだ。
これが安全基地の本来の役割である。煉獄さんの家では父親が機能しなくなっている、いわゆる機能不全家族になっているが弟の安全基地として煉獄さんは役割を担っている。煉獄さんのような人こそ、安全基地として機能している大人といえる。それは煉獄さんが自我が確立され大人になっているからだ。
煉獄さんはとにかく強かったのだ。アルコール依存症の父親を目にしながらも、母の愛を知らない弟のためにも前を向いて進んでいく覚悟があった。
そして、自分の世代で鬼を滅するのではなく、次の世代へ繋げるという信念もあった。自分が守ることの出来る範囲を分かっており、自分の命を使いやるべきことが何かがはっきりしていたのだ。それが、アイデンティティの確立で、自身の産まれてきた意味はこれだというものがあったのだ。
それが大人になるということである。
縁壱が生まれながらに痣がある理由
縁壱は生まれたときから、忌み子として生まれてきてはいけなかった私というトラウマを負っている。しかし、幼いながらにして利他的な人間であった。
更に縁壱は生まれながらにして、侍としての能力があった。しかし、縁壱はそんなことはどうでもよく、兄と一緒に遊んでいたいと望んだのである。
そして、この世界はありとあらゆるものが美しく、この世界に生まれてくることができたことこそ幸せである。という本当の幸せを知っている人なのだ。
縁壱の夢は家族と静かに暮らすことだった。愛する人の顔が見える距離、手を伸ばせばすぐに繋げるそれだけでよかったのだ。
その当たり前の幸せに気が付くことが出来ない鬼が、この世界にはいる。ナルシシズムを乗り越えることが出来ないものが鬼と化す。他者を利用し、その人の命よりも大切なものを簡単に踏みつけにし奪うのだ。
縁壱は愛する人と幸せに暮らすために産まれてきたことを知りながらも、それすら叶わない不運な人生だった。
無惨を殺すために私は生まれてきたのだと思ったが、無惨を殺すことをしくじってしまった。兄が鬼になり、珠世を逃がしたことを責められる。全て縁壱のせいではないのにも関わらず。
それでも縁壱は誰のせいにもせず自分のしくじりのせいで、多くの人を救うことができないと苦しんでいるのである。
他責志向になると人は、鬼となる。あいつのせい、世間のせい、時代のせいと誰かのせいにすることで怒りを他者へ向けるのである。
誰もが縁壱のように、他責志向にならず本当の幸せに気づき利他的に生きることで世界に平和が訪れるのではないだろうか。
縁壱の兄黒死牟が鬼になった理由
黒死牟が鬼になった理由は、生まれて来た意味が分からなかったからだ。縁壱は兄のことを慕い、愛していたが伝わらなかった。能力がある縁壱を妬み、羨んだ。
縁壱が言っていた、道を究めたものはみんな同じところへいくということは誰しもいつか必ず死ぬということだ。いつか必ず死ぬ命を、どのように使うかである。
黒死牟が死ぬときに、何も残せない、何者にもなれない。私は一体何のために生まれてきたのだ。教えてくれ、縁壱。と記している。
このように、何者かになろうとすることに拘ると大事なことを見失う。誰しも何者かになるために生まれてきたのではなく、幸せになるために生まれてきたはずだ。
縁壱のように、何者かになることに拘らず、兄と一緒に遊んでいる時間が大切で、愛する人がそばにいることが何よりも幸せと理解しているかどうかだ。縁壱が実家を出たあとに、ただただ星空が美しく、ずっと眺めて走っていたように、目の前にある小さな幸せが大切なのである。
このように、ナルシシズムを乗り越えることが出来ず、人生の本質に気が付くことが出来なければ黒死牟のように自分を見失い、鬼と化す。
鬼滅の刃鬼になる理由
鬼滅の刃で鬼が鬼になる理由は様々ある。どの鬼にも鬼になるほどの不運な生い立ちや背景がが描かれている。
許せないという強い怒りに囚われたときに、他者を傷つけ鬼になってしまうのだ。鬼にも鬼になる理由は必ずある。怒りの下にある強い悲しみに囚われ、目の前にある救いの手を見逃したか、救ってくれる人がいなかったのだ。炭治郎達のように柱に出会い、救われた子どもはとても幸運なのである。
現実世界でも人殺しをする人にも様々な背景がある。そうせざる負えなかった環境や、妓夫太郎のように生まれてきた環境が悪く、奪われる前に奪うことでしか生きることが出来なかった人もいる。奪うことが当たり前の世界で生きてきた人にとって、それが当たり前の価値観だからだ。
鬼を避けるためのアイデンティティの確立
生きていくうえで私の価値観が重要になってくる。自分や他者を大切に扱うという価値観を学ばなければ、主従関係や奴隷の関係に陥っていても分からないのだ。奴隷として扱われることが当たり前であった人は、奴隷であることの異様性が理解できない。
そのため、無惨のように奴隷として扱われることが当たり前で、心地よいとさえ思ってしまうのである。
誰しも誰かの奴隷ではなく、人権が保障されている。かつての日本には人権などなく、児童労働は当たり前の世界であった。
それぞれの人が生まれや育ちで差別をされないことが保障されたのは、第二次世界大戦後の憲法設立によってはじめて保障された。
それまでは、部落差別や男尊女卑など多くの差別がはびこり家長制度が当たり前の価値観だったのだ。
また、世界では国によって価値観は違ってくる。そのため、私の価値観=アイデンティティが必要になるのだ。
アイデンティティが確立した人間であれば、もののけ姫のアシタカのように曇りなき眼で見定め、自分の足でその場を去る選択をする。これが出来る人間こそ、本物の大人だ。
アイデンティティが確立していると鬼に傷つけられ、搾取されるだけの関係から去る判断を自分でできるようになる。煉獄さんのように、私の価値観と違いますので結構です。とはっきりとNOを言える力が、この悪意の溢れた世界で鬼を避けて生きていくために必要になる。
無惨はナルシシズム
無惨はナルシシズムを乗り越えることが出来なかった。他人を利用し搾取するだけの利己的な人間だ。
なぜこのような利己的な人間になってしまうのか、それはありのままの自分を愛することが出来ないからである。
無惨は病弱な弱い自分を許せず、認めることが出来なかった。弱い自分を無意識に押し込め、私は強いと勘違いしたせいで弱い自分を許せなくなってしまったのである。
ダメな自分を愛することができないと、ダメな他人を許すことが出来なくなってしまう。自分にもダメな部分があるから、仕方ないかと寛容になることで対人関係が円滑にいく。
利己的ではなく、利他的で分け与えるからこそ、その人の周りに幸せが集まってくる。無惨のように恐怖で他人を支配し、コントロールする人間はいつか必ず反撃を食らう。
人にしたことはめぐりめぐって自分のためになることだし。と炭治郎が言っていたように、自分の行いは観覧車のようにめぐってくる。
誰もがナルシシズムを乗り越え他者に寛容になり、幸せを願えることができて初めて社会はより良いものになっていくのだろう。
このような悲しみの連鎖を止めるためにも、今私が変わろうと思うことである。自分の周りの人へ幸せのおすそ分けをすることで、その人がまた周りの人へ幸せのおすそ分けをする。
このように、巡りめぐって社会がよくなるようにと願いがこめられた作品だ。
本当のトラウマ
本当の意味でのトラウマとは、私はこの世に生まれてきてはいけなかったという罪悪感だ。
私が生まれてくることで、周りの人が不幸になり死んでいくと思うことで私さえ生まれてこなければよかったと思ってしまうのだ。
これが本来の意味でのトラウマである。
このトラウマの乗り越え方を鬼滅の刃では教えてくれる。私たちがこの世界に生まれてきた意味は何かを伝えている。
鬼は自分が生まれてきた意味を知らない哀れな存在だ。
この世に生まれてくる意味
この世界に生まれてくる意味や自分というアイデンティティが確立されていると、人は不幸でなくなる。
鬼殺隊の隊員たちも不運な環境に生まれながらも、めげることなく前を向いて歩いている。そして、自分自身の生い立ちを決して不幸と思っていない。決して鬼にならない強さが彼らにはある。不幸の連鎖を止める強さがあるのだ。
「幸せは長さではない。見て欲しい私のこの幸せの深さを。自分のことが不幸だなんて思ったことは一度もない」
虐待や障害を持った人を可哀そうな人と見ることは、非常に失礼極まりないことだ。自身の価値観で不幸と決めつけ、可哀そうな人とすること自体なんと傲慢な考え方なのだろう。
その人の幸せはその人にしか分からない。それがそれぞれの価値観なのだ。孤児になったとしても、支えてくれる仲間に出会えたことで鬼殺隊の子どもたちは救われている。
「あなたと出会えたことが何よりの幸運。そして幸福だった。あなたの存在が私を救い孤独も全て蹴散らした。あなたを思うとき燃えるような力が体の奥から湧いてくるのです。」
このように思える相手に出会えることで、人は救われる。ダメな自分を自分で愛することは難しいが、ダメな自分をさらけ出してもそれでもいいんだよと愛してくれる人がいることで強くなれる。
辛い出来事があったとしても、その人がまた歩き出す力をくれる。
このような相手に出会えるかどうかで人生が変わる。また、そのような本当の仲間を探す旅が人生ともいえるだろう。
この世にたった一人でも、自分の弱さをさらけ出せる相手がいるかどうか。その弱さを認めありのままの自分を愛してくれる人がいたらその人は孤独から救われる。それが幸せに直結する。
無惨のように利己的で搾取される関係から離れ、炭治郎のような人間をこの世の中から探すことが人生だ。
私たちが生まれて来た意味
私たちが生まれて来た意味は、自分が幸せになるために産まれてきたはずだ。誰かのために、生きる人生や、誰かの価値観に囚われて生きる人生はただの奴隷でしかない。
誰かの価値観で生きた人生の先に何が残るのだろうか。何者かになることに固執したり、勝ち負けに拘り生きることに何の意味があるのだろうか。
私が心から幸せと思える時間を過ごし、幸せと思える人と共に生きる。それこそが私たちが生まれて来た意味だ。人と比べてどうかではない。何者かになるためでもない。自分が幸せに感じるかどうかなのだ。
自分が大切と思う人と過ごす時間こそが、何よりも大切なことなのだ。
現代でも残念ながら、鬼はいる。人を踏みつけにし、利用し搾取する心のない鬼はいる。悲しみの連鎖は止まっていないからだ。悲しみの連鎖を止めるためには、炭治郎のようにそれぞれが連鎖を止めるための刃を振るうしかない。
その人の苦しみや悲しみを乗り越えるかどうかは、その人次第だからだ。
人を踏みつけにする鬼は、本当の愛を知らず生まれて来た意味を知らない悲しい存在だ。苦しく辛い現実と向き合えず、乗り越えることが出来ず道を踏み外してしまった人たちである。
そんな時に、こっちだよと踏み外すことを止めてくれる”人間”に出会うことが出来なかった人たちなだけだ。
生きている間に、そのような人と出会うことが出来た人は幸運でしかない。出会えていたとしても、無惨のように自分さえよければ良いという考えから変わることが出来ない人もいる。
それは、ナルシシズムを乗り越えておらず、生まれて来た意味を知らないことが全ての元凶だ。
誰しも何者かになるためや、誰かのために生きることや奴隷になるために産まれてきたのではない。この世界に生まれてきたこと自体が素晴らしいことなのだ。そして、自分らしく、自分の幸せを見つけることが私たちの生まれてきた意味だ。
誰かと比べた幸せなど本物の幸せではない。自分の命よりも大切な人が、明日も幸せに生きてくれることこそが、本当の幸せなのだから。
鬼滅の刃作者のメッセージ
作者の願いは鬼殺隊の遺書にあるように、光輝く未来を願っている。
光り輝く未来の夢を見る。大切な人が笑顔で天寿を全うするその日まで幸せに暮らせるよう決してその命が理不尽に脅かされることがないよう願う。
たとえその時自分が傍らにいられなくとも生きていて欲しい。生き抜いてほしい。あなたが私だったらきっと同じことを言うはず。
ただひたすら平和な何の変哲もない日々がいつまでもいつまでも続きますように。
鬼滅の刃23巻204話
炭治郎のように優しい人や、一生懸命生きている人が踏みつけにされる理不尽な世の中だ。この世には無惨のような鬼が実際に生きているからである。
炭治郎のように優しさや愛を鬼に向けたところで、人間に戻すことは難しい。人間になりたい、変わりたいと思うのはその人次第だからだ。
各々が光輝く未来を夢見ることができれば、平和な日々が続くのではないだろうか。誰もがナルシシズムを乗り越え、当たり前の毎日や今ある幸せの大切さに気づいて欲しいと願う。
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