進撃の巨人作者が伝えたいこと・進撃の巨人のメッセージ、進撃の巨人解説

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いつの時代も人間の過ちは繰り返される

進撃の巨人の2,000年後の君への意味

2,000年後の君へから始まる進撃の巨人の物語。

2,000年前に始祖ユミルが迫害され、追い詰められた際に巨人の力を手に入れ巨人の物語が始まる。

その後もずっと巨人の力を持つユミルの民たちへの迫害は続いている。

エレンの生きる時代でも巨人の力を求め、争いは一向に終わりを迎えていない。

進撃の巨人は始祖ユミルが2,000年後の君、つまりエレンに全てを託した物語である。

エレンが駆逐しようとしていたのは仲間

壁の外にいた巨人たちは、エレンと同じユミルの民たちだ。仲間同士で争っていたのである。

ジーク達も壁の中へ侵入してきたが、エルディア人同士で争っている。最終的にも壁の中で争いが起き、仲間同士で殺しあってしまったのだ。

自分の仲間であるのに、争いが始まる点でも人は戦争を繰りかえすことがわかる。

その過ちを繰り返すのには、理由がある。

進撃の巨人最終話の戦争の意味

最後はエレンが地ならしをして、人類は8割駆逐されほとんどユミルの民しか生き残っていないはずだ。

エレンの死後エレンが眠る木の下でミカサが家族を連れてきたり、平和が続いているシーンが描かれている。

しかし、ミカサの死後戦闘機が空を飛び、戦争が起きているということが伺える。

人類を駆逐し迫害されていた仲間だけの世界になったはずだが、それでも戦争は終わらない。人間は結局争いを繰り返すということだ。

それは進撃の巨人で作者が伝えているメッセージを、全人類が学ばなければ争いは止まらないからである。

始祖ユミルの未練とは何か

始祖ユミルが豚を逃がした理由

奴隷であった始祖ユミルは家畜の豚と奴隷である自分を重ね、自由にしたい気持ちで意図的に豚を逃がした。

自由を求めた代償が迫害であった。

その家畜の豚たちはエレンと同じ状況といえる。エレンも家畜のように壁に囲まれ、世界を知らずに生きている。

彼らもまた自由を求めた代償があったといえる。

家畜のブタを逃がすことは、愛ある行動といえるのだろうか。そこには始祖ユミルのエゴがあったのではないか。

それでも生まれてきたからには、自由に生きて世界を知る権利や自己決定権は誰にだってある。

しかし世界に出たとしても、心が自由でなければそれは家畜と同じだ。

始祖ユミルの心は奴隷のままで、自由ではなかったのだろう。自由になるには、自分で人生を選択し生きていく覚悟が必要になってくる。

始祖ユミルがエレンに託した理由

始祖ユミルは巨人の力を手に入れた後、王様に見初められ子どもを3人産んだ。

愛を手に入れたと思っていたが、それは愛ではなかった。

王様は巨人の力が欲しかっただけで、始祖ユミル自身を愛していたわけではないのだ。

始祖ユミルが死んだときに王様がかけた言葉は、「起きて働け、お前はそのために生まれてきたのだ」「わが奴隷ユミルよ」という愛もへったくれもない言葉だ。

いや、誰もそのために生まれてきたわけではないわ!と全力でツッコミたいところだ。王様はいわゆる自己愛性のDV野郎ともとることができる。

しばしばそのような人は、相手を否定し自己決定力や自尊心を奪っていく。早く逃げて!と言いたいが、共依存になると逃げることや歯向かうことが出来なくなってしまう。

どんなに蔑まれようとも、尽くすことが愛と思い込んでしまうからだ。

王様のどこに一体愛があるのだろう。始祖ユミルは巨人の力を手に入れながらも、愛されず自由に生きることができなかったのだ。

心は奴隷のままで、自由になることができず2,000年後のエレンに託しなのではないだろうか。

エレンに託した理由は、自由を求める強さがあったからだ。

それは母親から本当の愛を教えてもらっていたからといえる。本物の愛を知る人は強くなれる。『強くなれる理由を知った』と鬼滅の刃の主題歌でLISAも言っていたように、強くなれるには理由がある。

始祖ユミルが王様をかばったわけ

始祖ユミルは槍が飛んできたときに、王様をかばうことで命を落とす。

はたから見れば愛されていないのに、王様をかばう必要なんてないだろうと思うが、始祖ユミルにとってはそれが愛と信じていたからだ。

王様に愛されていると思い、愛していたからこそかばったのである。また、共依存の人は誰かに尽くし必要とされることでしか、自分の価値を見出せない。奴隷であっても必要とされることで、私はここにいていいのだと生の実感を得ている。

始祖ユミルが死んだことでマリア、ローゼ、シーナが巨人の力を継承することになり、そこからユミルの民の苦しい物語が始まってしまう。

歪んだ愛情は、ときに誰かの悪夢になってしまうこともある。共依存の愛は歪んだ愛だからだ。共依存者は奴隷でいることで相手の自立を奪い、下からのコントロールで相手を支配しようとする。奴隷として尽くすことで自分の価値を見出すので、奴隷で居続けることができるように相手を下から支配するのである。

この歪んだ愛情から始まり、『お前が始めた物語だろ』と全先祖に向けた怒りの物語でもある。

なぜお前たちが始めた物語を、子孫の私たちに解決させるのだ。なぜこの世界に私たちを産んだのだという怒りが込められている。

人は人生が上手くいかないことを誰かのせいにすることで、自分を守ることがある。

これは防衛本能であり、人生が上手くいかないことを産んだ親たちや神様のせいにするのだ。この怒りは誰の心の中にもあり、自分のせいでこうなったという感情と向き合えないときに起こる。

また『お前が始めた物語だろ』という怒りは虐待をする毒親に対する子どもの感情と似ている。

お前が私を産んだから始まった物語りだろ、なんとかしろよコラァ!!産むことを選んだらダメな人間だろがテメェは!!という感情だ。

しかし、毒親は子どもを産んではいけなかったと思うと、自分自身が生まれたことまでも否定してしまうことになるのだ。

その考え方ではジークのように反出生主義になってしまう。私はこの世界に生まれてきてはいけなかったという本来の意味のトラウマを乗り越えることが出来ないと、このように反出生主義になってしまう。

この虐待の連鎖を止めるには、親の呪縛から解放され自分の人生を生き、自分の手で人生の舵を取るしかない。私は本物の愛を知らなかった救えなかった毒親たちに、愛を教えることのできる存在だと知ることで親に対する怒りを乗り越えることができる。

いつまでも親のせいだという怒りにとどまり続けると、自分の人生を歩めなくなってしまう。それはその怒りに支配された奴隷と同じだからだ。怒りの下にある親を救えなかった自分のせい、私が生まれてきたせいでこうなったというトラウマを超え、愛を選択できるかどうかにかかっている。

始祖ユミルが死後巨人を作り続けている理由

始祖ユミルは死後、私は愛されていなかったと気が付いたのだろう。

その怒りがあるからこそ、エレンに全てを託しこの巨人の物語を終わらせて欲しかったといえる。

死んで王様から自由になれたにも拘わらず、時空のはざまで巨人を作り続け、自分の意思を持たない奴隷で居続け自由を手にすることはなかった。

エレンは本当の愛を知っているからこそ、「お前は奴隷でもなく、巨人でもなく、人間だ」と伝えるのだ。

それはまるでもののけ姫のアシタカのようである。アシタカも「私は山犬だ」と怒り狂うサンに向かって、「そなたは人間だ」と教える。その愛を伝えることで心無きモンスターも人間になれるのだ。

始祖ユミルは奴隷で化け物の巨人であり、私は人間ではないと自分自身で思い込んでいる。

それはそのままの人間である私、生まれたままの自分を愛されてこなかったからだ。

人間である自分には価値はなく、奴隷であり巨人でいることで愛されると思い込んでいる。

それは共依存的な愛しかしらない人に起こる現象である。誰にも愛されることのない私は普通ではない、おかしいのではないかとさえ思っている。

本当の愛を知らないから、こうしなければ私は愛されないと思い込んでしまう認知の歪みが起きている。

本当の愛とは相手がどんな状態でも何かをしてくれるわけでなくとも、そこに居るだけで存在そのものが肯定され、愛されることだ。

本物の愛を知らない人は度々自分は何者か、そのままの私では愛されない、何者かにならなければいけないと成功などを追い求めてしまう。

そういう意味でも私は生まれたままでここに居ていいのだ、という自己肯定感が生きていくうえでとても重要になる。

エレンが始祖ユミルにこの世を終わらせてやると言った意味

共依存者は私は愛されていなかったと気づいたときに、初めて怒りの感情があふれ出す。奴隷として生き自分の感情を殺し、相手に尽くしてきたので抑えていた怒りが溜まっているのだ。

怒りは溜めれば溜めるほど大きく爆発する。だから怒りは溜め込んではいけない。溜め込んだ怒りは世界に対する怒りにもなる。全てが敵になり、世界が憎く敵だらけになってしまうのである。

だからエレンは世界が憎い始祖ユミルの代わりにこの世を終わらせてやると伝える。

盛大な遅れてきた反抗期ともいえるのではないだろうか。

こんな人生になったのは、お前たちのせいだと世界を呪い、人類を駆逐してやるという世界を巻き込んだ反抗期でもある。

それでもエレンは生まれてくる命は素晴らしいと思っていたので、自身をミカサに殺させ自分の愛するものを守った。

エレンは地ならしをすることで、はじめて自分の意思で自由に生きたともいえる。ここでも自由の代償があるといえる。

発達段階の反抗期とは、これまでは親のやり方が正しいと思いそれに従って生きていたが、世界は広いということや様々な価値観を知ることで自分のやり方を模索していく期間だ。そのため、その時期に親との衝突がある。それは正しく健康に育っている証拠だ。

エレンが死ぬ理由

世界は残酷だ、それでも君を愛すのが人生

エレンは自分の思っていた美しい世界と違ったから、全て壊すことにしたという恐ろしい思想の持ち主でもあった。言いたいことは分からなくもないが、壊したところで世界は美しくはならないのだよ君と伝えてあげたいところである。

世界が美しくなくても、悪意が溢れていても、自分自身に悪意があるからそれでもこの世界で生きていく。仲間を見つけ世界中の愛を探すために生きてくのが、宮﨑駿の「君たちはどう生きるか」だ。

世界が美しくなかったから、全てを壊すことにした。だからエレンは死ななければならなかった。美しくない世界であっても、その世界で生きることを諦めてはいけないのである。

周りが敵になるのは、自分を愛していないからそれが投影され、世界中が敵だらけになってしまう。

世界の人々を殺すということは、自身も殺すという投影が起きてしまうといえるのではないだろうか。

自分を愛し、認めることで世界中が味方になり、世界には愛が溢れ世界は美しいと感じることができるのだ。世界は残酷だ。それでもその世界で仲間や愛を探して、生きていく。それが人生だからだ。

エレンはポピュリズムか

ポピュリズム 大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動を指す。本来は大衆の利益の側に立つ思想だが、大衆を扇動するような急進的・非現実的な政策を訴えることが多い。特定の人種など少数者への差別をあおる排外主義と結びつきやすく、対立する勢力に攻撃的になることもある。

日本経済新聞https://www.nikkei.com/theme/?dw=22A00245

エレンは地ならしをするために、エレン派という一派を躍動していく。ユミルの民たち以外は排除すべきという思想で仲間たちを動かしていく様子は、排外主義でポピュリズム的といえる。

そのため壁の中で分裂が起き、争いが始まってしまうのだ。

極端な攻撃的な思想は、平和的ではなく多くの犠牲でなりたっていく。

破滅的な考えは、怒りに身を任せて祟り神になりいずれ死を呼び寄せることになる。

エレンは自ら悪魔になることを決めた

エレンは自ら人間になることを諦め、仲間のために人類を駆逐する悪魔になる道を選んだのだ。

自分のやりたかったことをやり遂げたといえる。

巨人の脅威はジークの言うように、ユミルの民たちの子孫が繁栄しなければなくなる。全人類が死ぬよりもユミルの民たちの生殖能力を奪う結末の方が、犠牲は少ないと言える。しかし、その結末は許せなかったのだ。

それは産まれてくる命は素晴らしいものと知っていたからだ。

そして世界が思っていたものと違い、美しくなかったから全てを壊したいという自分の気持ちを優先した。エレンは自分の大切なものを守るために自ら犠牲になることを選んだ。

自分で人生を選び、初めて本当の意味で自由に生きることができた。たとえそれが、全世界の人類の犠牲の上になりたっているとしてもエレンは自由に生きた。

エレンは親の言う通りにするわけでもなく、誰かの言われた通りにするわけでもなく、自分で考えた結果が全てを駆逐してやる、だった。

自分の思うように自由に生きた、しかし人類を駆逐するのはただの殺戮者でしかない。その自由の代償は死だ。エレンを止めるには殺すしかないのである。

エレンが生きる世界線

エレンが生きる世界線は、ミカサがエレンに本心を伝えることができていればあったかもしれない。

「ミカサお前のことが嫌いだった」と言われたときに、それでもあなたを愛していると伝えることができたら生きている世界があっただろう。

エレンは本気で嫌いだと言っているわけではないからだ。アルミンと時空の空間で話しているときに、ミカサには自分が死んでも10年くらいは引きずってほしいと言っている。

お前なんか嫌いだというときは、こんな私でも愛してくれますかという試し行動でもある。

エレンが「オレはお前の何だ?」と聞かれたときに、ミカサが「家族」という答えでなく本音を話していれば世界線は変わっていたかもしれない。

素直な気持ちを相手にそのまま伝えることは、それだけ重要な事なのだ。

自由の代償:自由になるにはルールが必要

エレンは自由を求め、自分がやりたいように人類を駆逐した。だから、死という代償があった。

みんなの自由を保障するためにも、ルールが必要になってくる。誰でも自由に人を殺すことができたら、いつ自分が殺されるかわからないリスクが出てくるのだ。

全員が安心して暮らしていくためには、お互いに殺されない保証が必要だからである。

自身の自由のために、他者の自由を脅かしていい理由はないのだ。

ジークは反出生主義者

ジークは被虐待児

ジークはユミルの民の解放のために、スパルタ教育をされていた。今でいう教育虐待である。

親の期待通りに出来ない子どもを否定し、叱り続けるとジークのように反出生主義になってしまう。それはありのままの子供を認めていないからだ。

ジークはユミルの民を解放するためだけに生まれてきたのだろうか。それでは始祖ユミルと同じで、親の奴隷と言える。何かをするためや、何者かになるために産まれてきたのではないはずだ。

私は生まれてきてはいけなかったというトラウマは誰の潜在意識にもある。このトラウマは、自分自身で自分のダメなところを認め愛するか、誰かに認めてもらい愛してもらうことで解消できる。

本来なら、親に認めてもらうと良いがジークは認めてもらうことができなかった。むしろ、ユミルの民を救え、何者かになれと親の期待や価値観を押し付けられていた。

ありのままの自分を愛してくれない親を見限り、内部告発を行ってしまう。その内部告発を行うことでも、自身を責めてしまったはずだ。

例え親が望むように愛してくれなくとも、愛することをやめると罪悪感にさいなまれる。愛がなければ人は生きていけないからだ。

愛せない自分や裏切った自分を責めてしまう。そうなることで、こんな悪意ある薄情な私は生まれてきてはいけなかったと更に自分を追い詰めることになる。

そんなジークが導き出した解決策が、ユミルの民の生殖能力を奪うことでこれ以上の犠牲者が増えないようにすることだったのだ。

この残酷な世界に初めから生まれてこなければ、ユミルの民や人類、誰も苦しまずに済むという考え方だ。

これも一種の解決方法ともとれなくともないが、これでは生きることを諦めているといえる。諦めたら試合終了だよとスラムダンクの安西先生も言ったように、諦めたらそこで終了なのだ。

進撃の巨人の伝えたいテーマがここに詰まっている。トラウマを乗り越えることで、そんな悪意ある私でも生きていていいし、この世界に生まれてきてよかった、生まれてくる命はそれだけで素晴らしいと思えるようになるのだ。

そして世界は残酷だが、彼らが思ったよりも世界は美しい。見えている世界をどうとらえるかは自分次第だからである。美しくないと思って見れば美しくないし、美しいと思って見れば美しく見えてくるのだ。

死んだ父親に囚われたままの哀れな男ジーク

エレンは「父親の望んだエルディアの復権を否定し続けることでしか自分自身を肯定できない男」とジークに冷たく言い放つ。

そやけど!もう…やめて…!と止めたくなるくらい見ていられないシーンだ。

ジークは死んだ父に対する反抗で、エルディアの復権を否定し続けたただの反抗期だ。

父に囚われ自分の頭で自分がどうしたいかを考えていない、それはまるで家畜と同じなのである。

虐待していた親に対する怒りに囚われているうちは、本当の意味で自分の人生を生きているとはいえないのだ。

進撃の巨人の作者が一番伝えたいこと・メッセージ

エレン・クルーガーがグリシャに言った言葉の意味

通称フクロウとしてマーレに対しスパイ活動を行っていた、エレン・クルーガー。彼が進撃の巨人の力をグリシャに継承させる際に言った言葉がある。

妻でも、子どもでも、町の人でもいい。壁の中で人を愛せ。それが出来なければ繰り返すだけだ。同じ歴史を。同じ過ちを。何度も。

進撃の巨人

作者が伝えたいメッセージがこの言葉に詰まっている。

人は自分を愛することで、他人に対しても寛容になることができる。自分のダメな部分を許すことで、他人が失敗したとしても自分も失敗することはあるなと許すことができるようになるからだ。

自分を愛し、他人を愛することで争いはなくなり平和な世界がやってくるのである。

これを全世界の人間が理解し、人を愛することをしなければ戦争や争う歴史は繰り返されるという意味である。

エレンの母のセリフ

特別じゃなきゃいけないんですか。絶対に人から認められなければダメですか。偉大になんてならなくてもいい。人より優れていなくたって…だって…見てくださいよ。こんなにかわいい。だからこの子はもう偉いんです。この世界に生まれて来てくれたんだから。

進撃の巨人

このセリフからも分かるように、作者が一番伝えたいメッセージはエレンの母のセリフだ。

私たちはこの世界に生まれてきたから、もう偉いし可愛いし素晴らしい存在なのである。存在を全肯定する言葉であり、これが本当の愛だ。

本当の愛を自分に向けることで他人にも寛容になれる。また、本物の愛を他人に与えることで、その人をトラウマから救うこともできる。私たちは生まれただけで素晴らしく、人に愛を与えることのできる存在だと知ることが重要なのだ。

愛がなければ生きれないのはこれらの理由からである。

私たちが生まれてきた意味

ストーリーがクライマックスを迎え、暴走しているエレンを止めるために戦うアルミンたち。その時にアルミンは捉えられユミルの民の”道”にいく。

そこでジークと対面することになる。2人で話している途中にアルミンは落ち葉を拾うが、ジークの視点からは野球のボールに見えていた。

2人とも見えているものが違うが、話がかみ合っていく。アルミンは落ち葉を見ながら、ミカサとエレンと3人で鬼ごっこをした日のことを思い出している。3人で走っているときにふと思ったのだ、僕はこのために生まれてきたのだと。

私たちが生まれてきた意味に大層な意味などないかもしれない。国を変える何者かになる等そんな何かになるために産まれてきたのではなく、日常に溢れる幸せのために産まれてきたのだ。それを知ることができ、日常に溢れる幸せに気が付くことができるかでその人の人生が変わる。

それをジークは今まで知ることができなかったのだ。そして今まで幸せなんかじゃないと思い、この世に生まれてきてはいけないという反出生主義になっていた。

しかし、アルミンの話を聞いてクラバーさんとキャッチボールをした日のことを思い出す。そしてまたクラバーさんとキャッチボールができるなら産まれてきてもいいかな、と思うことができたのだ。

生まれた環境が悪く、親から望むような愛がもらえなかったとしても、自分が愛するものを見つけることで幸せになり生まれてきた意味を知ることが出来るのだ。

愛のない環境に留まるのではなく、世界は広いと知り自由になることで、世界中の愛を探すことが出来る。生まれた意味を探すためにも自由になり、愛を見つける必要がある。

愛する対象は人とは限らない、ペット、旅行、本、音楽、アルミンやジークのように人との関わりの中にあるかもしれない。それを探すのが生きる意味であり、愛するものを見つけることができると生まれてきた意味がわかるのだろう。

グリシャにエレンが言った言葉の意味

これは父さんが始めた物語だろの意味

エレンがジークと共にグリシャに何があったのか見に行くシーンが描かれている。

その中で、エレンがグリシャに対し「これは父さんが始めた物語だろ」と物凄い至近距離ですごんでいるシーンがある。

もう許してあげて!!と言いたくなるくらい、可哀そうに見えるシーンだが、エレンの言っていることは真っ当だ。

自分の選択で選んだ道や人生は、自分で責任を取る必要があるからだ。それが自由の代償だ。自由に自分の人生は選べるが、選んだ人生には責任が伴う。

自分の人生は自分で選び、誰かのせいにしない強さが生きていく上で必要になってくる。責任は伴うが、自己決定力を得ることで自分の人生は自分で何とか出来るという活力にもなるのだ。

誰かのせいにしていると、自分には人生を変えていく力はないと思い込みやる気がなくなってしまう。

グリシャが犬に喰われた妹の復讐のために行動しなければジークもあんな風にならずに済み、壁の中の人もみんな生きていたかもしれない。

しかし、その選択をしなかったら、エレンはこの世界に生まれることが出来なかったのだ。

グリシャの選択否定してしまうと、自身の出生を否定してしまうことになる。

最終回でミカサがユミルに言う言葉の意味

あなたの愛は長い悪夢だったと思う。もう…奪われた命は帰ってこない……それでも。あなたに生み出された命があるから私がいる

進撃の巨人

始祖ユミルの愛、豚を逃がした愛、王様をかばった愛、その愛が後々の悪夢に繋がっている。

しかし、その愛があったからこそ、この世界に生まれることができたのだ。

虐待をする親もまた被虐待児であることが多い、その祖先を恨んでも仕方のないことだ。

虐待された時間や悲しみは返ってこないし、救われることはない。お前はその選択をしてはいけなかった、産んではいけなかったと責めることは、自分の存在を否定することに繋がるだけだ。

お前が誰かを愛さなければ、全ての不幸は始まらなかったはずだ。けれども、その愛のおかげで生まれてきた命がある、私がこの世界に生まれてくることができた。

そう思うことで親の呪縛から解放され自由になり、私は生まれてきて良かったのだと心から思えるのではないだろうか。

そして私たちはこの世界に生まれてきただけで素晴らしい存在で、それを世界中の人に教えることが出来る。

自分を愛することで、世界中に愛が溢れ、世界が美しく見える。

自分で考え自分で人生を選択し、自由に生きることは誰にでもできる。自由に選んできた道があるから、今の自分がいるのだ。

私たちは誰かの奴隷ではなく、人間だ。自分の人生は自分で舵を取ることができるのだ。

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