ノートルダムの鐘レビュー・ネタバレ・考察:価値観に囚われず自由に生きるためのヒント

フロローは恐怖の塊でパーソナリティー障害

物語の始まりは、フロローがジプシーの人々を追い回し迫害している様子から始まる。彼はなぜあんなにもジプシーを目の敵にしているのか。

人間は自分と違うものや分からないものに対し恐怖を抱く。フロローも自分とは違うジプシーに脅威を感じているため迫害している。彼らが自分の地位を脅かし乗っ取ると思っているのだ。

それはフロローが自分を愛することができず、世界が敵と感じているためである。世界や周りの人は敵で自分を脅かす存在と思っているとこのように、他人に対し心を開くことができなくなる。自分を愛していないので、その気持ちが相手に投影されこんな私を愛する人はいないだろうとなる。

彼はジプシーや他人が怖くて仕方がないのだ。人間は恐怖を抱くとその対象に攻撃を向ける。赤ちゃんに攻撃性を向けるものがいないのは、脅威に感じていないからだ。目の前に凶暴なライオンがいたらひとたび恐怖におののき、銃をかまえるだろう。攻撃性とはこういうことだ。

攻撃的な人は怖くて仕方がなく、ただただ怯えているだけと言える。

フロローのように他人を信用できず疑ってばかりいると、人間関係でつまずく。人を疑うということは、その人を裏切る人としてみていることと同じなのだ。そのような対応をされた人はどう感じるだろうか。この人は私のことを信用してくれていないのだと思い、去ることになるだろう。人を疑うということはそういうことだ。そして、傷つくならば愛ではない。たとえ裏切られたとしても、裏切るには何らかの理由があったのだろうと愛を選択することで自分も相手も傷つくことがなくなる。

ただし、中には他人を利用するだけ利用するという人間もいる。それはその人の心の問題であり、その人の課題だ。その問題に向き合う必要もなく、治そうとする必要もない。結局本人が変わろうと思えなければフロローのように孤独な最後を迎えることになるだけなのだ。

フロローの罪悪感

フロローはジプシーを追い回し、カジモドの母親を殺してしまう。更に見た目に障害があったカジモドを殺そうとする。その時司祭に止められ、神様はあなたの罪を見ているカジモドを育て罪を改めよと言われる。

フロローは神様を恐れ悔い改めようとした。しかし、悔い改めることなく愛を学ぶことができず人に愛を与えることができなかった。だから悲惨な最後を迎えるのである。

このように罪悪感があるとこんな悪いことをした私は神に許されるはずがないと思いこみ、人生がたちまち上手くいかなくなる。上手くいかなくなるのは、潜在意識で上手くいかなくなることを選択してしまうからだ。罪悪感を乗り越えなければ、不幸な人生を選択してしまうのである。

この罪悪感は人間として生まれてきたならば誰にでもある感情だ。その感情を乗り越えることができるかどうか、私は生まれてきただけで愛されると思えるかどうかで人生が変わる。

どんなダメな悪意ある私でも私は愛されると知ることで、自分に大きな愛を向けることが出来るのだ。

そして、どんな私でも愛されていると実感することで、どんな他人にも寛容になることが出来る。このどんな私も愛されているという実感が安全基地の正体だ。人は安全基地を持たなければ、安心して挑戦したりすることができなくなってしまう。自分自身が安全基地になることが出来たらよいが、難しいため他人に安全基地になってもらう方が簡単に出来るのだ。

人間は誰しも誰かを愛したい、誰かに愛されたいという欲求がある。それができないときに苦しむ。愛されないことで傷つくことはないが、愛せない自分に傷つくことになる。あの人を愛せない優しくできない自分は悪いとなってしまうのだ。愛がなければ人間は生きることが出来ないのだ。

フロローもこんな悪い私を愛して欲しいという欲求を抱えており、カジモドにも愛を与えてもらっていたが本当の愛を理解することが出来ず成長できなかった。

このような人が救えない命であり、いくら愛を与えても人を愛することができない人間もいる。過去に受けた傷が大きすぎて今世では無理というくらい傷ついているのだ。その人が自分は愛ある人間になりたい、人を傷つけたくないと変わろうと思わなければ一生そのままなのだ。

変わろうと思わなければ、人間関係はたちまち上手くいかず人は離れていき更に傷つき体験を増やしていく。そんな人には適切な医療や治療、福祉資源といったプロに出会うか、どんな自分でも変わらず愛してくれる人と出会えるかで人生が変わる。

私たちはそんな人にカジモドのように愛を与え続けることもでき、その人を救う力もある。愛を与えることを選択するかどうかは自分で選ぶことが出来るのだ。

カジモドは本当の愛を知らない

カジモドは母親を殺され、フロローに育てられる。育てられるといっても、人目に付くことがないように教会の塔の上で生活することを強いられていた。

そして、社会は怖く恐ろしいところで、姿の醜いカジモドは社会から受け入れられないと洗脳している。そう思っているのはフロローだけで、人によるが世間にも寛容な人は溢れている。敵ばかりではないのだ。社会は敵と思っているのはフロローで、受け入れられないと思いそれをカジモドにも強要し、世界は悪に溢れているという嘘を吹き込み洗脳する。

これはまるでDVを受けている関係性だ。DVをする人は、その人自身に抱えている問題があるがその問題と向き合うことが出来ないので他人に攻撃を向ける。DVをする相手に対し甘えもあり、ありのままの自分を愛して欲しいと攻撃する。

カジモドはフロローから虐待を受け、社会から断絶させられている。フロローがいないと生きていけない人にされており、強制的に共依存の関係にさせられている。カジモドは世界で自由に生きていく力もあるはずなのに、世界は怖いお前は醜いお前には無理だと洗脳されている。それは、フロローが一人ぼっちになり孤独になるのが怖いからである。

本当の愛とは、その人の生きる力を信じ外の世界へ自由に旅立つことを望むことである。何か困ったことや苦しいことがあれば戻ってきて、励ましてもらい元気になる場が安全基地である。親子で安全基地を築き、その後外の世界で安全基地を獲得していくのが本当の自立である。それは友人であったり、恋人や夫婦、学校の先生、職場の同僚などだ。その安全基地を世界で見つけることが人生であり、幸せといえる。

DVをする人の本質的な問題とは隠された怒りである。大抵親に対する怒りを抱えており、その怒りを親に出すことができないので受け止めてくれる優しい人へ歪んだ形で怒りを表現する。攻撃を向ける対象は反撃してこない相手なのである。反撃されるかもしれない相手に人間は攻撃をしかけない。自身の命が危ぶまれてしまうので攻撃することを避ける。攻撃を受けてしまう人は、この人は受け止めてくれる愛ある人と認識されている。

しかし、知識がなければ攻撃を向けられた相手は自分を責めることに繋がる。だから怒りに任せて他人に攻撃を向けてはいけないのだ。

鬼滅の刃のように、鬼にも鬼になる理由が必ずある。炭次郎が禰豆子に言い続けたように「鬼になんかなるな」ということなのだ。炭次郎は家族を惨殺されても生きることを諦めず、鬼にもならずもはや鬼にさえ愛を与えることの出来る人間なのだ。

鬼になり人間を恨み続けると戦い続ける人生しか送れなくなってしまう。怒りに囚われたり、自分の弱さを認めることが出来ない鬼になんかならず人を愛し生きていく人生の方が遥かに幸せなのである。

社会は恐ろしいものではない、人は誰しも他人を愛したいのだ。

ただし中には人の心を持たない人間もいる。愛が伝わらない救えない命だが、人の命や尊厳を踏みつけにしていい理由などどこにもない。そのような人間には必ず代償が必要になる。社会には全員で安全に暮らしていくためにルールが必要だからだ。自分の命を保障するためにも相手の命も保証しなければならない。そうでなければ、安心して生きることが出来なくなるからだ。

攻撃を受けている人が受け流す術や自衛する技術、その人から離れることのできる環境を確保できなければ攻撃を受け続けることになってしまう。その際には適切に対処しその場から逃げる必要がある。攻撃をする人にも理由があったのだと愛を与えることはできても、世の中にはルールがある。自由には代償があり、自分で行った行為には責任が伴い日本であれば法律が適応される。また、憲法でも基本的人権の尊重として何人たりとも自由を制限されるいわれはないのだ。理由があったとしても他人を傷つけて良い理由などどこにもない。

フロローは投影が起きている

フロローは自分のことを愛しておらず、こんな性格の悪い私は愛されないと心の底(無意識の世界)で思っている。そのために自分で自分を愛していないので、それが相手にも投影されこの人はきっと私を愛していないだろうとなるのだ。

その投影が他人だけに及ばず世界は私を嫌いで敵に思っているとなるのだ。また、人を殺めているのでこんな私は神様から見放される。神様は罰を与えるに違いない、人生が上手くいかないのも私が悪いことをしたので神様が罰を与えているのだと神の愛を疑うのである。

神様はどんな人でも愛してくれる、キリスト教では懺悔し悔い改めた人は救われる。現実社会ではそうはいかないので、自由に対する責任が伴う。自由に殺人を犯していい世界では誰も安心して生きることができない。行った行為に対し責任という罰を受けるのは必然なことだ。

このように世界を敵に感じ恐れ攻撃的になっている人に対し、風の谷のナウシカのように「怖くない。怖くない」と愛や私はあなたの味方だよと伝えることで、その人を孤独の敵だらけの世界から救うこともできる。これが本物の愛である。

カジモドは被虐待児

カジモドはただただ世界を知りたい、愛とは何かを知りたいだけなのだ。一人塔の中で愛を知らず孤独に生きていた。フロローに育てられていたが、ご主人様と呼んでいる様子から分かるように主従関係である。

はたから見たら奴隷であるようにみえる。実際に自由を制限され孤独で1人生きることを強いられている。社会から断絶されフロローがいないと生きていけない人にされているのだ。完全なる共依存といえる。フロローは自己愛性パーソナリティー障害といえるだろう。自分さえよければよく、他人をここぞとばかりに搾取し利用する心の問題を抱えた人なのだ。

カジモドは自己愛性パーソナリティー障害の人のDVの支配を受けている。DVをする人は自分がいないと生きていけない人を作り相手を洗脳する。そうすることで自分が必要とされていると思い安心するのだ。これが共依存の弊害で歪んだ愛情である。共依存とはお世話をする人の心の問題(必要とされたい欲求)とその人がいないと生きていけない人の心の問題(依存)がピッタリとくっつくため、離れにくくなる。そして世界は2人きりになっていき、外の世界から孤立していく。その関係性は孤立化し、2人の中で問題が起きても外からの介入がされにくく問題が深刻化しいずれ事件にまで発展する。よくあるのが、ストーカー殺人や夫婦で殺し合うという悲惨な事件や洗脳による殺人事件や自称占い師など支配者に洗脳され金銭などだ。

本当の自立とは沢山の依存先があり、正しい機関や適切な大人に助けてほしいと自ら助けてほしいと声をあげることが出来ることだ。それができないと、たちまちフロローのように悪い大人に騙されて利用され搾取されてしまう。人生はこのようにまともな大人、愛着が安定型の人間と安全基地を築き健康的な人間関係を作ることができるかが幸福に直結する。

その人が1人でやりきる力を引き出し、時には見守り時には介入し自分の保護の元から独り立ちをして、外の世界へ飛び立てるようにするのが本来の保護者の役割である。これが正しい親子関係や支援者と支援される側の関係であり、相互依存の関係だ。また、友人や恋人とこのような相互依存という正しい人間関係を築くことができるかが人生の幸せに繋がる。共依存の関係はお互いに自由を制限し、相手が幸せになることを拒絶するため堕ちていくだけの関係になる。

このように、きちんと自立している大人で愛着が安定型の人間と関係を築くことが大切になる。また互いに安全基地となり、共に愛着の安定型を目指すことも可能だ。その場合は互いに、成長する必要がある。カジモドもフロローの元から去り、自分の価値観(アイデンティティ)を探し求める必要がある。それこそが人生であり誰にでも必要な親からの自立なのだ。

カジモドは洗脳状態

カジモドは1人で生きることができる強さがあるにもかかわらず、社会は怖い、フロローがいないと生きていけないのだと洗脳されている。

このようにその人自身の生きる力を意図的に奪うことは恐ろしいことだ。テーマに障害があることからも、支援とは何でもかんでも手助けすることではないことが重要になる。また、過保護も毒親ということが良くわかる。親が子供の課題を奪いなんでも手を貸していると、何もできない人が誕生してしまう。過保護はその人の生きる力を奪う残酷なことなのである。

カジモドのように外の世界へ出るといじめられる、嫌な思いをする、社会は敵だと思わせて安全な場所に囲い人々の目から見えない場所で生きることは果たして本来の意味で生きていると言えるのだろうか。社会や外の世界は敵と教えられた子どもはどのような反応を示すだろうか。社会で生きていくことに対して安心を感じることが出来なくなってしまうはずだ。

ノートルダムの鐘はインクルーシブ教育とは何かを考えさせられるテーマだ。かつての日本も昭和頃までは、障害者の人が身近にいて生活していることが当たり前だった。しかし、時代が過ぎると障害者を地域から排除し山奥へ施設を作り人々の目から見えないようにしてしまった。

現在では障害者が地域で生活を送ることができるように、グループホームなど様々なサービスが生まれている。誰もが生まれたままその人らしく生きていくことが、この日本では保証されている。それが基本的人権の尊重である。

カジモドも塔から出て自由に生きる権利がある。そして、カジモドには生きていく力があるのにも関わらず力を奪われている。外は怖い世界は怖い私は醜いという洗脳を受けているのだ。こうでなければいけない。という価値観は誰の価値観なのか今一度考える必要がある。社会の価値観、親の価値観であり世界に出るとそんな常識は関係ない国も沢山あるのだ。

そんな狭い価値観から私の価値観を築くのがアイデンティティの確立である。人々は親の元から離れ自由に自分の人生を切り開いていく必要があるのだ。

カジモドは虐待の環境から逃げる必要がある

また、いじめを行う人や攻撃を向けてくる人さえも、誰かから攻撃を受け傷ついている人なだけだ。しかし攻撃を受け続けると互いに命を奪い合う結末を迎えるしかなくなるので、離れるしか術はない。

世界は攻撃を向けてくる人ばかりではないことを知り、世界中の愛を探すことが人生だ。そんな攻撃を向けてくる相手を自身の愛で救うこともできる。それが本当の愛で傷つくならば愛ではないからだ。怒りは二次的感情で分かってほしい、愛して欲しいという気持ちを素直に出せないときに出る感情だ。いくら攻撃を向けられても愛し続けることも可能だ。しかし、いくら愛を与え続けても今世では無理というくらい傷つきが深い人もいる。そのような救えない命もあることは確かだ。

カジモドは本当の愛を知り、皆を救いたいフロローさえも救いたいと大きな愛の力を発揮していく。自分を許すということは、このように自身に対して大きな愛になることを許すということでもある。ムカつくあいつを許すのではなく、自分に大きな愛であろうとすることを許すのだ。これが本当の許しである。

そして、自分を大事に扱い愛することで、大事に扱ってくれない人から離れることができるのである。自分を粗末に扱っていると、他人から粗末に扱われても分からず受け入れてしまうからだ。

DVを受けている人は自分を愛し、愛してくれない攻撃的な人から離れなければならない。自分は大事に扱われ愛される権利があるということを知る必要がある。

ジプシーのエスメラルダ

カジモドも元はジプシーの両親のもとに生まれており、ジプシーの一族である。仲間同士であるにも関わらずその存在を知られることはなく孤独に生きていた。

仲間がその事実を知っていたとしたら、保護をして助けていたのだろう。本当の愛を知る人に出会えるかが人生の分かれ道になる。

エスメラルダに対しフロローは執着をしている。妖艶にダンスをしているだけなのに、男を惑わし狂わすという恐ろしい思い込みをしているのだ。

そうなるには理由がある。自身がエスメラルダに対し恋心を抱き、性的に魅了されているのだ。その気持ちを認めたくないが故にエスメラルダは悪だと執拗に追い回す。

勝手にエスメラルダに対し性的に見ているお前の心が異常でセクハラですよと言いたい。セクシーな服を着ている人が性加害を受けると、その人がそんな服を着て相手を惑わしたのが悪いのだということと同じだ。

被害を未然に防ぐことは必要だが、加害することは決して許されることではない。性的な考えを持ち加害してしまう自分が悪いと認めることが出来ず、私を性的に興奮させたお前が悪いのだとなるのである。とんでもない認知の歪みがあり恐ろしい発想だ。

これが他責志向の考え方だ。自分が悪いという自責と向き合うことが出来ない人がしばしば、人のせいあいつのせいという考えに陥る。その攻撃性を向けられると人は傷つくことになる。祟り神の呪いはいずれ死を呼び寄せるからだ。

攻撃性の強い人に対し変われというのではなく、自分の考え方を変えるしかない。ありのままを愛するということはそういうことだ。たとえ攻撃性が強いというハンディキャップがあっても、その人らしさと受け止め変われなくても時には見守り時には介入し、必要ならば医療とつなげる必要がある。

治療は医療の世界の仕事だからだ。フロローのような他責志向の病的な人には治療が必要だろう。

本来ならば、ここまでなる前に治療に繋がると良いがフロローのようにいくら愛を与えても救えない人もいる。他責志向の自分を変わろうと自分自身で思えないと、変わることはできない。

他人と過去は変えられないからだ。そのような人と離れることも一つの手である。その人の親になりいくら攻撃を向けられても愛し続ける覚悟があるならば、そばに居続けるとよいのだろう。それを選ぶのは自分次第だ。

DVをする人は幼少期の発達課題を解消していない人に起こる。親からもらう愛情が欠如しているのだ。どんな自分も愛されるという経験が足りないか、過保護に育てられ我慢することを学んでいない場合もある。

過保護に育てられると何でも自分の思う通りになると勘違いし、幼児的万能感が解消されずプライドの高い人間になる。このような人たちはしばしば他者に親のように愛することを望むのだ。

自分の価値観と違うものを排除する:排他的思考

フロローは自分と違うものを悪とみなし排除しようとする。現代のアメリカでもあるようにホームレスを一斉排除し行き場をなくす。それは人々が見たくないからと言う理由だけで行われる。

フロローもジプシーや他人を見下し、それを悪と捉え捕まえ牢屋に入れて人々の目から排除する。自分の価値観と違うものを悪とみなし見たくないからと排除する、その傲慢な偏見こそ心の闇を感じる。

昨今ではLGBTQ等マイノリティの人々の権利擁護が話題だ。合理的配慮とは何を指すのか話をする機会が出てきているように感じる。

臭い物に蓋をするように、見えなくしてしまうのではなくそれぞれがどのように感じどのように考えるかが大切なのではないだろうか。映画『紙の月』のテーマにあったように障害者を見えないところへ押しやり、職員の人々によって守られ生きることは果たして人として生きていることなのだろうか。

誰しも生まれたからには自由に生きることができる。自由に生きたくとも支援を必要とする人もいるのは確かだ。そのための福祉があるのだ。そうでなければ安心して子供を産めないし、後天的に障害を負ったときに生きていけないと安心して生活できないからだ。

優勢思想のように、障害者には生きる権利がないのだろうか。人々が各々で考える必要がある。

自分と違うからという理由だけで、生きている意味がないと決めつけ殺戮することはただの殺人鬼でしかない。人の命を勝手に奪っていい理由など誰にもないからだ。人の命を踏みつけにする心を持たない鬼に一切引いてはいけない。

見た目に障害があると悪魔なのか

フロローはカジモドの母から赤子を奪い、顔を見るや「怪物だ」「これは悪魔だ地獄へ戻してやる」といって井戸に投げ込もうとする。とても恐ろしい思想の持ち主だ。しかし、その考えを否定することもできない。フロローはそのようにしか考えることのできない悲しい人間なのだ。

司祭が「罪のない人を殺すのか」とフロローに問うと「逃げなきゃこうはならなかった」と言う。どれほど他責志向なのだろう。あいつが悪いと人を責める他責志向はこのように、命を奪うことに繋がる。

「今度は子どもを殺し罪を犯すのか」と問うと、フロローは「罪など侵していない」と自信満々に答える。この人の価値観の中では自分は一切悪くない、むしろ社会の悪を懲らしめていると思い込んでいる。私は正義だと思い込んでいる人間ほど恐ろしいものはない。

誰しも各々持っている正義は必ずある。こちらの正義が正しいと思うと、相手の正義は悪になる。どちらも自分が正しいと思い込んでいる。だからいつまでたっても争いは終わらず戦い続けるしかなくなる、戦い続けることは人生を生きていると言えるのだろうか。

フロローのように自身の正義を振りかざし私は悪くないと罪もない人の命を踏みつけにする行為は、許されることではない。フロローのように人を愛することを辞めると生きることが出来なくなる。人間は愛がなければ生きれないからだ。

あいつが許せないと怒りに身を任せていると、あいつを許せない自分に人は傷ついていく。そして怒りに囚われて自分の人生を生きることが出来なくなってしまうのだ。囚われの人生は今を生きているといえないだろう。何かに固執し執着し人の愛や世界の美しさに気付かず、常に嫌なあいつに囚われてしまうのだ。

怖いもののない男が神を恐れた理由

人々が持つ「私が生まれたことが罪」という罪悪感の正体は、生まれてくるときに神様を捨てたと思うことで起こる。神様を捨てた私は神様に愛されるはずがないと、周りで起こる全ての不幸はそのためだとおもうのだ。

しかし、神様はそんなことで怒る気の短い人なのだろうか。神様を捨てた私を神様はきっと怒っているに違いないと思い込んでいるだけだ。これが投影という状態だ。

自分が感じている気持ちを相手に投影し、きっと相手はこう思っているに違いないと決めつけてしまう。相手の感情など本人に聞かなければ誰にも分からないはずだ。神ですら分からないだろう。

このように、投影が起きフロローは神様を恐れたのだ。そしてキリスト教では罪を悔い改めたものは救われるが、フロローのように悔い改めることができないと地獄に落ちるのである。

それは、他責のまま自責と向き合えないと自分自身にも死を呼び寄せてしまうからだ。他責から自責と向き合い更に愛を選択するかで人々が人生を生きやすくなり、争いごとは起こらなくなる。

▽トラウマの乗り越え方▽

フロローは自己愛性パーソナリティー障害

司祭にとがめられ、赤子のカジモドを塔に閉じ込めておこうとする。「この怪物もいつか役にたつ」と呟くのだった。何とも恐ろしい考え方をする人間だ、人間と言えるのか怪しいところではある。

このように自分さえよければ、他人を利用するだけの利己的な人間が存在する。

そのような人に利用されないためには、戦う強さが必要になる。いじめ問題も同じだ。いじめる方にあきらかに心の問題があるが、いじめられる方にも心の問題がある。いじめを決して受け入れてはいけない。

いじめを行う人間はいわゆるDV依存症を発症している。人をいじめることでドーパミンが脳内で分泌され辞めることが出来ないのだ。それを受け入れていることは、依存症を辞めさせていないことと同じなのである。

治療が必要ないじめ依存症の人をそのままにし、いじめを受け入れてしまうことはその人のためにもならない。治療につなげる必要はないが、いじめを受け入れ許してはいけないのだ。

そのように人をいじめることでしか自分を保つことが出来ない人間を相手にする必要はない。いじめられる側には、いじめを受け入れてしまうという心の問題がある。

いじめを受け入れるとても心優しい人なのだ。カジモドのように、フロローの支配を受け入れてしまっているといえる。しかし、カジモドのように自分で戦う強さが必要になる。そうしなければ、いつまでもそのように利用する人に永遠に利用され、搾取される人生になってしまうのだ。

いじめやDVを決して受け入れてはいけない。いじめ依存症に加担してはいけない。

鐘を鳴らすのは怪物かそれとも人か

フロローは出来損ないと言う意味のカジモドという名前を付けて塔に閉じ込めた。これはとても恐ろしい事件だ。出来損ないと言う意味の名を付けることさえ、失礼極まり無い話である。

人に対して愛を与えることが出来ず、見下しているお前の方が出来損ないだ!とフロローに伝えたいくらいである。

作中のオープニングで「鐘を鳴らすのは怪物かそれとも人か」と歌うシーンがある。現在ではクレームが殺到しそうなくらい、責めたセリフだ。障害者を馬鹿にしているのかと反発が起きそうなセリフであるが、現実はこう考える人が多いのではないだろうか。

世界は寛容な人ばかりではないことは確かだ。自分は差別などしないと思っている人の心の中にも、差別する気持ちは必ずあるだろう。きれいごとばかりの世界ではないからだ。

そして、自分は健常者だと思い込んでいる人こそ、果たして自分は健常者なのか疑った方がよいだろう。健常者、障害者と分けるから差別が起き自分とは違う人を排除しようとするのではないだろうか。誰も全く同じ人間などどこにもいないのにも関わらず、人は自分と違うところを探して自分の優位性を保とうとするのではないだろうか。

フロローは自分はまともだと思っているかもしれないが、明らかに自己愛性パーソナリティー障害の特徴がみられる。彼もまた精神障害者といえるだろう。

誰しも得意不得意や特性がある。その人らしさと捉え、それが生きる上での障害になっているのならば、支援が必要となる。その人らしく、社会で人々と生活することができるように支えるのが支援者といえる。

また、お世話をしてあげる、やってあげると考えるのは支援者側のエゴでしかない。それこそ見下すことに繋がり、その人の可能性すら奪う恐ろしい考え方なのだ。あなたはこうしなさい、と言うのはただの過保護なだけであって、真の支援とはいえない。

支援は誰にもできることではない。その人が出来ないことをただ単にあの人はああいう人だらかと決めつけ、お終いにするのはただの井戸場だ会議のおばさんの会話だ。支援はそこで終わってはいけないのだ。なぜこの人はこうなのだろう、なぜだろうと日々の会話や自身の知識を増やすことでその人の力を引き出す支援に繋がる。

本当の支援とは、その人らしく生きていき、自分自身でやり切る力を引き出すことだ。何でもかんでも手を貸してお世話をすることは、相手の自立を奪い何も出来ない人にしてしまう。支援者に必要なことは、自分自身が資源となり多くの知識や福祉の繋がりを持っているかが重要な素質になってくる。

人を障害者としてみることが全ての偏見や差別に繋がるのではないだろうか。その人を障害者とみることで、その人を障害者にしてしまう。一人の人間として対等に接することが人間関係の基本なのではないだろうか。

人間関係の基本は対等で横の関係

アドラー心理学にもあるように、上下関係が人間を一番不健康にする関係であるとしている。人を上下関係で見て、あいつは下だと思い込むことにより言葉でのコミュニケーションを諦める。

言葉の通じない相手に行うことは、恐怖や暴力での支配だ。それが虐待に繋がる。保育や介護の現場で行われる虐待の多くは、このように子供やお年寄りを言葉の通じない相手として下に見て対等な関係を築かないために起きる。

障害福祉の世界でも同じだろう。障害者を障害者として扱い、言葉の通じない人として自分よりも下の存在だと扱いだすことで虐待に繋がる。

どのような相手でどんな関係であろうと、人間関係の基本は対等で横の関係である。上司と部下であろうと横の関係でなければ、パワハラに繋がる。人を対等に見ないことで全ての虐待や権利の侵害が行われるのだ。

カジモドとフロローのように主従関係は一番人間がおかしくなる関係性と言えるだろう。その関係はもはや奴隷だからだ。カジモドには自由に生きる権威があり、世界の愛を知る権利もある。

このようなどうしようもない毒親の元から去り、本当の愛や仲間を見つけることが人生だからだ。親から植え付けられた価値観を打ち壊し、自分とは何か自分の価値観を養っていくことがアイデンティティの確立だ。

自分を傷つけるだけの存在や、自由を願わず奴隷として扱う人間から離れなければいけないのだ。私達は誰かの奴隷ではなく、人間だからだ。

カジモドは自立をしなければならない

カジモドの登場シーンで鳥のひなを巣立ちさせるシーンがある。このように、カジモドは自由に世界へ羽ばたかなければならないし、その権利がある。

鳥のひなに「やってみるんだよ」と温かく声をかける。それは自分に向けている言葉なのかもしれない。更に「飛んでって色んなことを見てくるんだよ」「行きな、ずっと籠の鳥なんかでいたくないだろ」と伝える。まさに親が子に向ける本当の愛情だ。

これこそが、親や安全基地としての役割である。何者かに保護され籠の中の鳥として生きるのは、果たして生きていると言えるのだろうか。自由に世界をみる権利が誰にでもあるはずだ。誰かの支配の中で生きるしかできないのは、ただの奴隷でしかない。

誰にでも親の元から去り、親の価値観や誰かの価値観で生きるのではなく自分の好きなもの自分の価値観を見つける自由がある。それこそ本当の自由ではないのか。

ノートルダムの鐘石像の意味

現実世界で石像が喋りだすことはないだろう。人との交流がなさ過ぎて、幻覚妄想幻聴が出てきているのかもしれないが、カジモドの心の声だろう。人々は外界の刺激がなく思考をしていると自分の心の声なのか、外から言われている声なのか判別がつかなくなる。

カジモドがまだ大人へ成長していないとしたら、イマジナリーフレンドと考えられる。

1人っ子や孤独を埋めるために、想像上の友人を相手におしゃべりをしたり、一緒に遊んだりする。この相手をイマジナリーフレンドという。

普通とは何か

普通とは何だろう。通常の人間の見た目や精神性が普通と言われるならば、果たしてどの人も普通なのだろうか。誰しもその人らしさという特徴があるように、誰一人として全く同じ人間などいないはずだ。

カジモドも外の世界へ出てお祭りに行きたいと思っているにもかかわらず、「僕は普通じゃないから」と諦めている。その普通とは一体誰から見た普通なのだろうか。フロローからお前は醜いおかしいと言われ続けているだけで、それはフロローの価値観でしかない。

心優しいカジモドをお前は醜いと蔑むその心が普通ではなく、異常だろと声を大きくあげたい。自分が正しい自分が普通と一ミリも疑わず、他人がおかしいと決めつけるその心こそ精神性が低く普通ではないのではないだろうか。

その考えを否定することもできない、お前と私では価値観が違う。と鬼滅の刃で煉獄さんが言ったように、鬼と心を通わすということは出来ないのかもしれない。しかし、炭次郎のように鬼にも鬼になる理由があったのだと愛を向けることの出来る人こそ、真の強さがあるのではないだろうか。

全世界の人や鬼すらも炭次郎のように、優しさを向けることができれば争いなどすぐに終わるのだろう。しかし、現実はそう甘くなく、世界は残酷でもある。外の世界へ出てもカジモドを醜いと言う人間もいるだろう。だからこそ、自分を愛してくれる人と共に生きていくことが大切なのだ。世界は残酷だ、それでも君を愛するという強さが生きていく上で必要なスキルと言える。

人生は見ているだけでは生きたことにならない

ノートルダムの鐘が伝えたいメッセージはここに集約されている。「人生は見ているだけでは生きていることにならない、見ているだけだと置いてきぼりにされる、君は人間だ」人生を生きるための秘訣といえる。

私たちは人間だ。何かを自分で決定し生きていく自由が誰にでも保証されていいはずだ。自己決定権や自由を守られてこそ、その人らしく生きていくことができるのだろう。

そのためにも、自分で自分の安全基地になり生きていく力強さが人間として一人ひとりに必要とされる能力ではないだろうか。自分を大切にすることで、相手を大切に扱うことにも繋がってくるのだ。

カジモドは奴隷なのか

カジモドは母親を殺した殺人犯に育てられているとういう、恐ろしい環境で生きている。何とも不幸でしかないが、その事実を知らされておらずフロローを命の恩人と思っている。

命の恩人なので、傷つけられたり主従関係であることを受け入れてしまっているのだ。事実はただの殺人犯で利己的な人間であり、人を人と思わず利用するだけの悪魔なのである。

だれしも誰かの奴隷であることに、違和感を抱かなければならない。私は愛されるべき存在で、守られる価値のある存在だと心の底から思わなければカジモドのように利用されるだけの人生になってしまう。

心も体も自由に生きる必要がある。どんな状況であっても誰かの奴隷であってはいけないのだ。

▽心も体も自由に生きるとは▽

カジモドは恋をする

カジモドは優しく接してくれるエスメラルダに恋をする。本当の愛を知ったのだ。しかし、現実はおとぎ話程甘くはない。ここにノートルダムの鐘の魅力が詰まっている。

プリンセスのように王子様が現れて助けて暮れるという夢物語ではないのだ。エスメラルダは強くてかっこいい兵隊のフィーバスト恋に落ちる。とても残酷なストーリーだ。

しかし、カジモドはエスメラルダやフィーバスと友情を育み友達を助けたいという一心で力を発揮していく。それは、エスメラルダとフィーバスがありのままのカジモドを愛し差別することがなかったからだ。これこそが本当の愛と言えるからだろう。エスメラルダから見返りを求めず、例えフィーバスのことを好きであろうとエスメラルダの幸せを望むのだ。相手の幸せを望む、これが本当の愛だからだ。

フロローのようにカジモドを利用するのでもなく、カジモドの自由を望み愛を与えてくれる人に生まれて初めて出会ったのである。

このように、本当の愛を与えてくれる大人と出会うことで救われる人もいるが、利用され搾取されつづけてしまう人もいる。

一人一人がその愚かさに気づき、本当の愛を与える人であることで世界は少しずつでも良くなっていくのではないだろうか。私は人々に本当の愛を与えることのできる真の大人でありたい。

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