母性映画【解説】毒親はどうして生まれるのか

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母親に母性はなかったのか

この母親に母性はなかったのだろうか。

母性がなかったというよりも、大人になれなかったと言える。

この母親自体親から愛されていない訳でもなく、たっぷりと可愛がられているように見受けられる。

与える愛を学ぶことができなかったのだ。

親の思う通りに自分を演じ、人生を選んできた人は本当にしたいことや望みが分からなくなる。

この母親もその一人と言える。

いい子ちゃんの弊害

祖母(大地真央)から見た娘(戸田恵梨香)はとてもいい子だ。

親の喜ぶように自ら動き、親を喜ばせようとするからだ。

一方で反抗期がなかったはずである。

人間がきちんと成長するためには、反抗期は必ず必要なのだ。

反抗期とは自我の芽生えで、親のやり方ではなく”自分”を確立していく大事な時期である。

それがないと人は自我が確立できず”自分”が分からなくなり生きることが難しくなってしまう。

赤ちゃんは泣くのが仕事

赤ちゃんは泣くのが仕事と言われる理由は、泣くことで母親は戻ってきてくれるという安全基地を獲得するための大事な行為だからだ。

赤ちゃんが泣く前に親があれこれしてしまうときちんと安全基地としての機能が働かなくなる。

困ったら助けてくれる存在がいると思うことで、外にでて社会の荒波にも屈することなく生きることが出来るのだ。

赤ちゃんが泣く前にあれこれすると母子分離が出来なくなる。いつまでも母がいないと生きることが出来なくなってしまうのだ。

泣いている子を放置していても子どもは安全基地を獲得できず、回避性愛着スタイルという人と深くかかわることを避ける人間になってしまう。

安全基地が不在になってしまうと、外に出るのが怖くなったり何か困難にぶつかったときに踏ん張る力がなくなってしまう。

反抗期もこれを学ぶ一つの機会であり、自分でできるという自立をしていく大事な時期だ。

そしていくら反抗しても親は愛してくれるのか試しているともいえる。

こんな私を愛してくれますかと反抗し、それでも受け止めてもらうことで相互依存の愛へ成長していくことができる。

この一連の作業がないとこの母親のように、愛し方がわからなくなるのだ。

本来なら夫がすることを娘にやらしている

本来ならこの母親のドロドロとした感情を向ける相手は夫だ。

そのドロドロとした感情を向けられても、あなたを愛していると伝えることで相互依存の愛へ成長することができる。

しかし、この母親は自分の親が喜ぶからという理由だけでこの夫と結婚しているのでそこには愛がないのだ。

自身の親には向けることのできなかった感情を、娘へぶつけていく。

こんな私を愛してくれますかと娘に対して反抗期を起こしているのだ。

▽▽▽▽

相互依存の愛とは

親子逆転が起きている

毒親の環境でしばしば起きるのは、親子逆転現象である。

親が親としての機能せず、子どもが親の親としての役割をやらされるのだ。

この母親も娘を自分の親として、自身の感情をケアさせている。

娘が手伝おうとバケツを取ると、「触らないで。あなたの手は気持ち悪いのよ」と拒否をする。

しかし、いくら拒否されようとも子どもは愛することは辞めないのだ。

それを知ってか知らずか、大人になれていない毒親たちは自身の子供を自分の親としようとする。

それでもあなたを愛していると子どもは伝え続けるのだが、それは毒親には伝わらない。

私たちはありのままで愛され、生まれてきただけで素晴らしい存在だということを知らないからだ。

毒親たちも子どもを愛していないわけではなく、本当の愛を知らないだけなのだ。

依存の愛しか知らなかった毒親

この母親のように毒親は依存の愛しか知らないのだ。依存の愛とは赤ちゃんのように私の思う通りに愛して欲しいとすることである。

暴言を吐いたりすることは、親にお父さんお母さんのせいでこうなったと泣き叫んでいる子どもと同じだ。

お前のせいだと言いたくなるほど辛い現実があったのかもしれない。

▽▽▽▽

お前のせいだと責めるといけない理由

他人を許せないのは自分を許していないから

この母親が執拗に子どもにも自分と同じように祖母に対していい子であるように強要する。

それは自分がいい子でいて我慢をしているのに、なぜお前は出来ないのだという気持ちがあるからだ。

自分が完ぺきじゃないと愛されないと思い込んでいるので、完ぺきに出来ない人を許すことが出来ないのである。

いい子じゃないと愛されないという思い込み

いい子を演じる子どもは、いい子でいなければ愛されないという思い込みがある。

本当の愛とは、ありのままの相手をそのまま愛することであるがそれを知らないのだ。

こうしたら愛される、こうすれば愛を返してもらえるとするのは共依存の愛と言える。

この母親は共依存の愛しか知らず、その愛を必死で親や義母に向けるのだ。

本当の愛を知っている人はそんなことをしなくてもよいと教えてくれる。

それが娘なのだ。

いい子でいても愛してくれない人はいる

いい子でいたから愛されていたわけではないのに、それしか知らず義母に対してもいい子でいようとする。

この世にはどんなに自己犠牲をしても、愛してくれない人がいることを知らないのである。

いくらこの義母にいい子で愛してくれと伝えても、愛は返ってこない。

この義母もまた依存的で、子どもに対し依存しており本当の愛を知らない人と言える。

だからいくら頑張っても愛は返ってこないのだ。娘が母に対して頑張っても愛が返ってこないのと同じである。

いい子でいなくても愛してくれる人がすぐそばにいるにも拘わらず、共依存的な人は愛してくれない人にこだわる。

ある意味で、こんな私は愛されないという正しさの証明を続けているからだ。

正しさの証明

正しさの証明とは、本当の私は愛されないと潜在意識で思っているとそれを正しとするように行動することである。愛してくれない人に愛を与え続け、やっぱり私は愛されないのだと証明しようとする。

依存の愛のまま成長していない

子どもの依存の愛のまま成長しておらず、ありのままの娘を認めることができない。

私の思う通りの愛し方をして、生きろと伝えるのだ。

実母が娘のせいで死んだと思っているので、お前のせいで私の人生は終わったとずっと受動攻撃を続けているともいえる。

どうして私の思うように生きることが出来ないのだと間接的に伝えている。

他責を向け続けられると人は罪悪感からいずれ死を選んでしまう。

大人になるにはどうすればいいのか

この母親は依存の愛しか知らなかっただけで、本当の愛を知ることで大人になることができる。

娘は常に母親に認められようと愛を与えているが、それを認めず見ようとしない。

娘が自傷して初めて気が付くのだ。

それほど自身の認知のゆがみに気が付くことは難しい。

いずれ人間関係でつまずいた時にやっと「私はおかしい」と気付くのだ。

本当に愛してくれている人は誰か

親が子を怒れるのは、それでも子供は愛してくれると知っているからだ。

この母親も娘は愛を返してくれると知っているから、感情をぶつけている。

本当の姿を娘だけに見せることが出来ているのである。

そんなダメな自分も愛してくれる存在こそ、本当に愛してくれている人だと知らなければいけないのだ。

それこそが本当の愛だからだ。

反抗期がないとおかしくなる

本来は自身の母親や夫に、こんなダメな私を愛してくれますかとぶつけることで本当の愛を知ることが出来る。しかし、この母親はそれをしてこなかったのだ。

やっと反抗し、いい子で隠している感情を娘にぶつけているといえる。

いい子は内にある怒りを隠し間接的に表現する。引きこもりなどがそうである。

この母親は怒りの全てを娘にぶつけているのだ。

娘の最大の反抗が自死

娘もまたいい子ちゃんだ。母に愛されたいと願い、いい子を演じているが一向に愛されない。

いい子の反抗は静かなる反抗を迎える。

静かなる反抗で内にある怒りを表現するのだ。

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いい子の静かなる反抗とは

他責でいると死を呼び寄せる

他責でお前のせいだと責め続けると、責められた人は罪悪感にかられ自分を責める。

自分を責めることがやめられなくなると鬱になったり、最悪の場合死を選んでしまう。

私がいることで皆に迷惑をかけてしまうという気持ちになるからだ。

毒親も愛していないわけではない

この母親も娘のことを愛していないわけではない。

依存の愛し方しかしらず、本当の愛し方を知らなかっただけだ。

自分の思う愛情を与えても、本当の愛でなければそれは決して愛ではない。

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