ネタバレ含みます。
ジョーカー映画考察をしたい。なぜあんなにも優しかった彼がジョーカーになってしまったのだろうか。
ジョーカー映画考察
あらすじ
「どんなときでも人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。
都会の片隅でピエロメイクで大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに密かな行為を抱いている。
笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ狂気あふれる〈悪のカリスマ〉ジョーカーに変貌したのか?
切なくも衝撃の真実が明かされる!
ワーナー公式
映画ジョーカーとは
ジョーカーとはスーパーヒーローのバットマンシリーズに出てくる極悪なキャラクター。
映画ではなぜジョーカーが誕生したのかを描いている。ダークナイトに出てくるジョーカーとは同一人物ではなく、今作のジョーカーに影響を受けた人物がジョーカーと名乗って犯罪を犯していると考えられる。
ジョーカーが誕生した理由
ジョーカーは親子共依存が原因
ジョーカーになってしまった青年アーサーは、介護が必要な母と二人で暮らしていた。
母に対しても優しく接し、職場でからかわれても誰に対しても優しく接してとても心優しい青年だ。
しかし、彼の優しさは共依存的な優しさと言える。他人に優しくすることで、自分の価値を見出している。また誰かを助けることで自分は必要とされている、ここに居ていいのだという実感を得ている。
いわゆる他者の問題まで背負い込んでしまう”いい子”である。いい子は親や誰かにとってのいい子でしかない。本人の自立やその人の人生は置き去りになっている。誰かのためにいい子であった人を心配してくれた人はいたのだろうか。
必死でいい子を演じ頑張ってきた人に、もう頑張らなくていいというのもまた違う。その人の頑張りを認めていないことに繋がるからだ。一生懸命頑張ってきたことで辛うじてつぶれずに生きてきた人にかける言葉は、それだけ頑張ってきたあなたに幸せになってほしいという言葉だ。
他者の問題を背負いこんだその人を助けてくれた人はいない。誰も助けてくれないのに必死に誰かを助けようとする必要はない。その助けたいという気持ちを自身に向けることで、自分の人生を歩むことが初めてできる。
いい子はいい子の仮面で怒りや敵意を抑え込んでる。必死に何十年と抑え込んだ怒りはいつか必ず爆発してしまう。その怒りが直接他者に向かう場合は、ジョーカーのように殺人に繋がり、自身に向かう場合は自殺をすることで他者に怒りをぶつける。
自殺はある意味で受動的な攻撃性が潜んでいる。自分では気が付いてはいないが、私を救えないお前たちに対する宣戦布告でもある。
また、人生の苦難がもつれすぎてどうしようもないとなったときにリセットしたい、生まれ変わりたいと願うときに起きやすい。
人は死ななくても生まれ変わることは可能だ。あなたが望めば変わることがいつでも出来る。自分の人生を自分でどうとらえるかは自分次第だからだ。
アーサーはそのような共依存的な優しさをあえてしているのではない。いい子でいることをあえてしようと思ってしているわけではない。
そうせざる負えない状況に置かれているのだ。母親は介護が必要で精神病もあり、アーサーがいなければ生きることができない。つまり、アーサーに依存している状況だ。
彼はヤングケアラーで、そのような親がいる場合優しい良い子として生きることを強いられる。
親子間の共依存は子どもが知らずのうちに、生まれた瞬間から半ば強制的に始まる。
共依存の関係は本当の愛とは言えない。互いに相手に依存して生きることができない状況は、その人自身の自立を奪うことになるからだ。共依存の愛は本当の愛ではなく、歪んだ愛情である。
必要以上に相手の問題に介入することにより、その人の自立を奪い1人では生きることができない人にしてしまう。それはとても恐ろしいことだ。
共依存者はそのように、相手の自立を奪い自分がいないと生きていけない人を作る。相手から必要とされることで自分の価値を感じることができるからだ。それは下からの支配が起きている。
しかし、アーサーは共依存をしようと思ってしているのではなく、元々母はアーサーがいなければ生きることが出来ない人間だからである。
依存してくる人がいると共依存になろうとせずとも、勝手に共依存を強制されるのだ。
ジョーカー親子は親子逆転現象が起きている
親子間で共依存になっている場合は、親子逆転現象が起きており子どもは子どもであることを許されない。親の保護者としての役割を当てがわれてしまう。
本来ならば、生まれて赤ちゃんから独り立ちできるまで親に依存し、自立心が芽生え反抗期を迎え大人になっていく。しかし、親子逆転現象が起きている場合は、依存の時期がないのである。
依存の時期をすっ飛ばして子ども時代に自立することを強制される、大人になる前に大人になることを強いられるのだ。
そのような子どもは将来的に精神疾患になってしまうことが多い。本来なら子供時代に済ましているはずの反抗期や発達課題を解消していないからだ。
子ども時代をすっ飛ばして大人になることを強いられているので、遅れてきた反抗期がでてきたり、発達課題を乗り越えておらず大人になったときにその課題にぶつかり潰れてしまう。アーサーもその一人だ。
反抗期がなかったいい子には親がいないのと同じである。親を他人と思っているからいい子であるのだ。親を信頼していないから心の底の感情を出すことが出来ない。本来の子どもであれば、幼児的願望のどんな私でも愛されたいという感情を出し、それを認めてもらうことで大人になっていく。
幼児的願望を抱えたまま大人になった人は、精神的に子どもで体は大人な状態なのだ。そんな5歳児の大人が社会に出て働くことがどんなにしんどいことなのか、考えるに容易い。
彼がジョーカーになってしまったのは不幸な境遇だった、それだけだ。アーサーが特別でおかしかったわけではなく、誰でもジョーカーになる可能性はある。ただただ生まれた環境が悪く、不運だったのだ。そんな不運な元に生まれても彼は母を愛し、必死に生きていたのである。
そんな不運な元に生まれも、どこで育ってどんなに親が無責任でひどい目にあっても人生は自分次第で変えていける。それを学ぶことで自分の人生を歩むことが初めてできるのだ。
不幸な人生を誰かのせいにしているのは、自分以外の外の何かに依存している状況だ。自分の外の何かが私を幸せにするのだと思うと、その状況が来ないか誰かに幸せにしてもらわないと幸せになることができない。
そのような依存をしている状況では、自ら人生を切り開く力が奪われてしまう。そして外から幸せが与えられない限り幸せになることが一生できないのだ。
どんな不運な元に生まれても、自分の人生は自分で変えていける。幸せに感じるには自分の心次第なのだ。
貧困と障害
アーサー親子は見るからに貧困で苦労していることが伺える。彼自身も情動調節障害という障害を持っており、通常の仕事に就くことが難しい状態だ。
介護が必要な母がいたとしても、普通の仕事に就くことができお金を稼ぐことができたらこのような凄惨な事件は免れたかもしれな。
彼自身も障害を持っていて一人でさえ生きることが困難であるのに、母という依存を一人で引き受け抱えなければいけないのだ。
1人で歩くことも困難な人に、両腕から引っ張る人がくっついている状態だ。そんな状態で歩くのは難しいことは想像に難くない。
歩くことが困難な上に腕を引っ張り続けられ、足を骨折しているのに両腕を骨折するのも時間の問題である。両腕を骨折してしまい、更に心が複雑骨折に陥ってしまった人は人であることができるだろうか。
ジョーカーになることは誰にでもありうるほど、当たり前に起きてしまうことだ。
ジョーカーは孤独だった
ピエロの仕事はアーサーにとって大変ではあるが、唯一の居場所で拠り所だった。しかし、その職場でもいじめにあい、事件が起きて仕事をクビになってしまう。
母との逃げ場のない生活の中で、唯一の光であった居場所を失ってしまったのだ。
逃げ場を失い、更に貧困も加速していく。そんな中で社会に対する怒りを募らせていく。
こんな不幸な世界になぜ生んだという神様に対する怒りは、世界の人に対する怒りになる。こうなったのはお前たちのせいだと世を呪い、社会を恨む。
心を蝕む怒りはいずれ死を呼び寄せる。他者に対する怒りが収まらず、誰かを攻撃するからだ。
怒りは二次感情と言われ、怒りの下に悲しみなどの感情がある。更にその下に私のせいでこうなったという本来の意味でのトラウマがある。
私のせいでこうなったという感情と向き合えない時に、自分を守るために怒りという感情で防衛するのだ。
怒りを超え自分のせいでこうなったという感情に到達した人は、自分が生きていることでみんなを傷つけてしまうと死を選ぶ。
だから、どちらにしても心を蝕む怒りはいずれ他者か自身の死を呼び寄せるのだ。そうならないためにも、私は誰の希望にもなれないというトラウマを乗り越える必要がある。
ジョーカーや無敵の人は祟り神になっている。詳しくは下記のもののけ姫の記事を参照。
心の支えを失い続ける
アーサーの心の支えになっていたのは、同じアパートに住むシングルマザーのソフィーだ。
孤独な彼にたった一人の愛する人がいたのである。どんなに辛い状況であっても自分を愛してくれる人がいれば踏ん張ることができるのだ。
また母親から大富豪(バットマンの父)が本当の父親だと知らされ、その父親の存在もアーサーの心の支えであった。
ヤングケアラーは罪悪感にさいなまれる
ヤングケアラーは親を救えない自分という罪悪感にさいなまれる。それは自分は誰も救うことができない、誰の希望にもなることができないというトラウマだ。
自分に親を救える力がなく、笑顔にすることができないことで無力感に打ちのめされていく。
そんな親を救えない罪悪感は、生まれてきたことに対する罪悪感にも繋がっていく。そして、私が生まれてきたことで全ての人に不幸が降り注ぐ。そんないい子でない私は誰からも愛されるわけがないという感情にもなる。
いわゆる優等生のいい子はこの感情があるからこそ、必死でいい子でいようとする。いい子の私でなければ愛されることはないと思っているからだ。
また親の依存を引き受けているので、心の底から愛されるという経験をしていない。
子どもは反抗期でどんなに反抗しても親はそれでもどこにも行かず、愛してくれるということを体験する。その体験が健全な愛着を形成でき、心の底から愛されるという感情が湧いてくるのだ。
それを経験することで、どんな私でも生きていていいし、愛されるという自己肯定感を得ることが出来るのだ。
安定的な愛着を形成できていないと、こんな私は愛されないという潜在意識を強化していく。
そんな状況でも親以外の誰かと安定的な愛着を形成することで、乗り越えることは可能だ。
毒親は安定的な愛着を形成する対象としてはかなり難しい。毒親自体の愛着が安定型ではないからだ。自身が安定型の愛着を手に入れ、毒親の安全基地になることは可能であるが、毒親自体が安全基地になることは不可能に近い。
そして子どもである自身にも、親に思うように愛されたい依存をぶつけたいという欲求がある。それをぶつけても受け止めるだけの余地がない人に、それを求めることは酷なことだからだ。
安全基地を探すために世界にでること、親に望むように愛されたいという呪縛から自由になり自分の道を生きることが人生だ。もちろん誰にでも依存心はある。その依存心が大きくなりお互いに依存したい一心で手を引っ張り合う関係では共依存になる。互いに支え合い出来ないところを補いあい手をつないで歩いていくという状況こそが、相互依存の関係であるといえる。
また、自分で自分の安全基地になることもできる。自分を救うことができるのも自分しかいないからだ。いくら他人にあなたは素晴らしいと言われ続けても、それを自分で認めることが出来なければ一生乗り越えることができない。
自分自身で私は生まれてきてよかったのだと心の底から思えることが必要だ。
愛着を対象を失う
貧困に追い込まれたアーサーは、大富豪の父親を頼って会いに行く。しかし、母の名前を出すと笑われ息子ではないと否定されるのであった。
精神病院に掛け合い、事実を確認すると母は父親の話を妄想で話しているだけだったのだ。
その事実を知ったアーサーはソフィーに会いに行くが、不思議そうに怖がられてしまう。今までソフィーと過ごしていた日々が自分の妄想であったと気が付くのだった。
心の支えであった愛着対象がすべて虚像であったことを知り、完全に心が砕け散ってしまったのだ。安全基地を完全に失ってしまったのだ。
ジョーカー爆誕
アーサーは心の支えを失い、追い込まれていく。母を愛していたが、母は自分を愛していたわけではないと気が付いてしまったのだ。ここで初めて共依存の愛は本物の愛ではなく、歪んだ愛だと気づいたのである。
実際問題母はアーサーを愛していないわけではないが、親になることができない5歳児の大人であった。それは決して子どもを育てることができる精神状態にあらず、大人として成長していない。
子どもを健全に育てる能力がないのにも関わらず、子どもを産み親になろうとするから疲弊し子どもをまともに育てることができない。
そしてそのことにも気が付いておらず、子どもに依存し子どもに対し自身の親であることを強要する。
そこに愛はあるのかと言われると愛はある。ただ歪んだ愛があるのだ。歪んだ愛では人間は真っ直ぐ育つことが出来ない。
親も歪んだ愛しか知らず、それしか与えることが出来なかっただけのことだ。愛がなかったのではなく、本物の愛を知らなかっただけのことなのだ。
そのことに気が付かなければ、アーサーのようにジョーカーになってしまう。
アーサーは私は愛されてなどいなかったという感情に飲み込まれ、毒親の呪縛から自由になることができなかったのだ。呪縛から解放されなければ、親に対する敵意を止めることが出来ず殺してしまうことに繋がる。
また殺すことで初めて物理的に自由になれたともいえる。しかし、殺したとしても本来の意味で自由になったわけではない。精神的には自由になることはできないのだ。
親を愛することが出来なかった自分、殺してしまった自分、救えなかった自分という罪悪感にさいなまれて世界を壊そうとジョーカーになるしかなくなる。
本当に自由になるためには、愛を知らなかった人に対して愛を教えることのできる存在に自分がなることだ。どうしてこの人はこうなってしまったのだろう、一体この人にどれだけ苦しいことがあったのだろう、私がそれを理解して愛してあげようと愛を選択することで本当に心の底から自由になれるのだ。
ジョーカーは孤立していた
もしアーサーの居場所が仕事場と家以外にあれば、手を貸してくれた本当の意味での大人がいたはずだ。
本当の自立とは助けて欲しいときに、適切な人に助けて欲しいと言うことができる力があることだ。アーサーは親が信頼できる人間ではないので、本当に信頼でき自分を愛してくれるのはどういう人か分からないのだ。
その点でも毒親の元で育つ子どもがどんなに生きづらい人生になってしまうのか想像できる。
それでも沢山の人に出会い居場所があれば、まともな人間に出会う機会が多くなる。
また自立とは依存できる場所が沢山ある状況といえる。依存先が一つであった場合、依存された人にその人を支えるだけの余裕がなければ共倒れになってしまう。
依存先が沢山あることで、1人の人に依存の手を引く力が分散されることに繋がる。
本来は何でもかんでも頼るという依存ではなく、出来ないこと困っていることを助けて欲しいと表現することが相互依存だ。
自分の問題を誰かに解決してもらうことは、自分で生きる力を失うことにも繋がるからだ。その人の課題はその人のものであって、他の誰かの課題ではない。
その問題に介入しすぎることは、例え親子であっても境界線を越えている。
この境界線こそが、自他境界線である。この自他境界線が曖昧であると、人の問題を背負いすぎて自分が潰れたり、相手の感情に振り回されることになる。
境界線が曖昧であると自分の考えていることは相手も同じように考えるはずだと、他者性を理解することが出来なくなってしまう。
一人一人価値観は違う。価値観や考えが違うことで誰かに責められることはないのに、考え方が違うお前はおかしいと相手を攻め立てたりするのは、この他者性が理解できていないからだ。
自分を愛してもらえない怒り
こんなダメな自分を愛してもらえないという悲しみの感情は、こんなダメな私を愛せないお前たちが悪いのだ。と世界に対する怒りになり、世界が敵になってしまう。だからアーサーは世界を壊そうと、ジョーカーになってしまったのだ。
世界が敵になるのは自分が自分のことを愛していないから、それを周りに投影しているだけのことだが本人には分からない。周りが愛してくれないという思い込みは、その投影が起きているだけと気付くことができればよいがとても難しいのである。
だめな自分でもいいのだと自分で自分を愛することができ、私は愛されるにふさわしいと心から思うことができれば周りは敵ではなく味方だらけになる。
私は愛されるにふさわしいという感情は、必ず態度にもでる。愛されることはないと思えば、相手を疑い信頼せずにきっとあなたは裏切るだろうという態度に繋がる。
100%の信頼であなたは私を愛してくれるでしょという態度は、相手に信頼を示し自分を愛してくれる人として扱う。
それはまるで幼い子供のように相手に対して100%の信頼を寄せることだからだ。
人は誰しも誰かの役に立ちたい、誰かの愛でありたいという欲求がある。そんな欲求がある中、自分を愛ある存在として扱ってくれる人を愛さずにいれるだろうか。
誰にでもジョーカーになる可能性はあるが、ジョーカーになる人を救うことも可能だ。ジョーカーになるか、ジョーカーになる人を救う自分であるかは自分次第だ。
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